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第13章ー第109話 遠い距離感

 翌日。保住の案がなんなのか、わからないまま日が昇った。  田口は、どうしたらいいのか、心配で眠れなかった。保住にメールをしようかと思案したのだが、結局は下書きまでしかたどり着かなかった。  ――なぜだろう?  神崎の家政夫事件以来、保住との距離感が大きく横たわっている。近づきたくても近づけない。  なんだか眠れなかったせいで、早めに出勤することにして身支度を整えた。事務所の扉を開くと保住だけが出てきていた。 「おはようございます。あの……」  田口は言葉を切る。人を寄せ付けない雰囲気に、言葉が出ないのだ。  ――なぜ? どうして?  自問自答しても、答えは見つからない。  今日の彼は、余所行きの恰好をしていた。教育長研修会の時を、彷彿させる出で立ちだ。黒のスーツに赤いネクタイをしていた。 「係長、今日はなにか……」 「今日は一日出張だ」 「どこへですか」 「東京に行ってくる」  聞いていない。  ――突然の? 昨日の件?  いつもだったら、色々教えてもらえるのに。やはり彼との距離が遠いのだ。  ――嫌われた? 避けられている? 「あ、あの。係長……」  声をかけて手を伸ばした瞬間。 「準備できたか」    そこに澤井が顔を出した。 「ええ」  田口を見ていたはずの保住の視線は、澤井に向いてしまった。ここのところいつものことだ。  ――保住さんはおれを見てくれない。 「そうか。正念場だ。気合い入れとけよ」 「わかっていますよ」  ――澤井と一緒?  田口は目を瞬かせた。 「帰りは何時になるか分からない。渡辺さんにはメールしておいたから。じゃ」  保住はそう言い残すと、澤井と事務所を出て行った。 「いってらっしゃい……」  なぜだろう。 「やっぱりまだ怒ってるのかな……」  いいや。なにかが違う。そんな話ではない気がする。  怒っていたら、きっと感情をぶつけてくる人だ。八つ当たりされたり、甘えられたり、頼られたり。それなのに……遠い。手を伸ばせば届く距離なのに。 「保住さん」と名前で呼ぶのが(はばか)られた。  ――どうして。 「なんで?」  田口はため息を吐いた。 ***  「お疲れさまです」その一言が打てない。田口は携帯をソファに投げ出して、ため息を吐いた。 「ダメだ。メールが送れない……」  結局、保住と澤井は帰ってこなかった。残業をして粘ったが、渡辺に「お前も切り上げろ」と言われて渋々帰宅したのだ。  首を横に振ってから、ビールを飲む。気持ちが通じなくてもいい。そばに居られれば。そう思っていたのに。贅沢だ。欲張りだ。そばに居るだけではダメなくせに――。 「保住さん……」  悶々としてしまう。相談できる相手もいない。眠れるわけもない。田口は走ってこようと外に出た。  深夜に差し掛かっている時間だが、田口の家の界隈には飲み屋が多いので、人通りが絶えなかった。外に出て、周囲を見渡すと、ふと紫の看板ライトが光を放っているのが目についた。『バー ラプソディ』だ。古ぼけた壁と日に焼けてくすんだ色の扉を見ると、なんだか昭和の匂いがするスナックみたい。  ――まだやっているのだろうか?  なんとなく人恋しくて扉を押すと、中からはピアノの音が流れてきた。 「生演奏?」  驚いて目を瞬かせると、無愛想な女がカウンター越しに田口を見てから、プイッと顔を背けた。 「初めてはダメですか?」  拒否されているような気がして尋ねると、カウンターに座っていた男が笑う。 「大丈夫だよ、入りなよ」  ――店の人? じゃないな。客か。  彼はウイスキーの水割りを飲んでいたからだ。 「桜、愛想良くしないと新しいお客様がビビるだろう」  男は女を茶化すが、彼女は面倒だと言わんばかりの表情をしただけ。本当に無愛想だ。田口は店内を見渡してみた。大して広くないようだ。カウンターに五、六人が座れて、後は丸テーブルがいくつかある程度。  ただ、目を見張るのは、店の奥にあるグランドピアノだ。あれは――。 「スタンウェイ?」  確か、星音堂(せいおんどう)が所有する、高額なピアノと同じメーカーだ。 「お! 兄ちゃん、音楽わかるの?」  男は嬉しそうに田口を招き、隣に座らせた。 「いえ。すみません。仕事柄知っているだけで、おれ自身、音楽はよくわかりません」  スタンウェイを弾くのは若い男。静かな雰囲気の曲は田口の心を落ち着かせてくれた。 「仕事って?」  桜が珍しく口を開く。 「えっと、役所です」 「役所でスタンウェイと出会える部署なんてあんの?」 「文化課です。星野一郎記念館を担当しています」 「ああ、なるほど」  桜は笑った。無愛想なのに笑顔は素敵。なんだか保住を思い出した。  彼がいない、田口の世界は色あせていく。モノクロの世界だ。田口は表情を暗くした。 「ここに来る奴は、なにか背負ってるもんだ。野木にでも話してみたら」  桜はそう言って男を見た。見られた男――野木は胸をドンっと叩いた。 「ああ、おれは野木。この店の一番の古株な。いつもは大人しいけど、音楽にはちとうるさいぜ」 「田口です。音楽関係の方ですか?」  田口の問いに桜が口を挟んだ。 「野木は自分では全く演奏できないんだよな! こんなに楽器下手なセンスのない奴は初めてみたくらいだ」  酷い言い様だが、野木は笑う。 「そうなんだよ。こんなに音楽を愛しているのにさ。全くダメ。ピアノ、歌、ギター、パーカッション、なんでもトライしたんだが」 「全部センスゼロ。全て講師から印籠を渡されたんだ」 「そうなんですね」  しかしものすごい執念だ。そんなに音楽が好きなのか。

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