123 / 242

第15章ー第123話 圧迫骨折

 忙しいおかげで、時間はあっという間に過ぎて行く。二月末、オペラ上演まで一か月に迫る。  今年は雪が多かった。車道の雪は早期になくなるが、歩道は溶けては凍りを繰り返してアイスバーン化する。歩行者は神経をすり減らしながら通勤することになる。スーツ姿にブーツは合わないが、仕方がない。革靴ではツルツルで雪国育ちの田口でも厳しい。   最近、バードウォッチング用の長靴を見つけた。柔らかい素材で折りたためるため、専用の袋に収納できるから重宝する。更に機能性も高く、雪道でも滑りにくい。 走っても大丈夫と言う優れものなのだ。 「保住さんにも買ってあげようかな……。あの人、絶対転ぶよな」  そんなことを呟きながら、早めに出勤をして、部屋を暖かくしていると、みんなが出勤してきた。道が混み合うので、早めに出てくる人が多いのだ。『早めに出る』、『余裕を持つ』というのは雪国の常識。 「また一時間かかったよ……まじめに勘弁してほしい」  矢部は大きな欠伸をする。 「道に雪ないのに……混むんだよな。絶対、学生だよ。送り迎えしてもらってんだ。今時の学生めっ」 「ですよね……。時間が倍はかかると思って出てこないと。本当、神経使うし、早く春になってほしいですね」  谷口も頷く。 「うう……うちの娘がその学生だよっ! こういう時ばっかり『お父さん〜』なんて猫なで声だもんな……」 「で、そんな娘に負けて送迎する馬鹿な親ですね?」  矢部のコメントに渡辺は笑うしかない。「そうそう」とか言いながら、渡辺が肩に手を当てて首を横にすると、事務所の扉が開いた。ゆっくりと。一同は、はっとして視線をやる。後、顔を出していないのは保住だけだ。 「係長?」 「おはようございま……す」  保住はドアノブに手をかけ、屈みこんでいる。 「ちょ、今度は一体、なんなんですか?!」  田口は慌てて駆け寄る。他の職員たちもだ。 「係長、凍傷ですか?!」 「足痛いの?」 「おはようございます……」  彼は顔色が蒼白だ。 「転びました……」 「は!?」 「え!?」 「こ、転んだって」 「雪道で、――豪快に……」  一同は吹き出した。 「いい加減にしてくださいよ。本当」 「子供じゃないんだから」 「大丈夫ですか?」  考え事ばかりしている男だ。運動も苦手と言っていたし。転ぶのは頷けるのだが——。田口は心配そうに屈む。 「痛みます?」 「笑い事じゃないくらい、痛い……」 「嘘でしょ」 「係長、病院に行った方がいいですよ」 「おれ、連れて行きます」  田口が、そう言って立ち上がった時。澤井が出勤してきた。 「なにを騒いでいる」 「局長」  澤井は屈みこんでいる保住を見つける。 「またお前か。今度はなんだ」 「転んだそうです。もしかしたら、ヒビが入っているのかもしれません。痛みが尋常ではなさそうです」  田口が答える。澤井は面白くなさそうに鼻を鳴らした。 「この忙しい時に」 「――すみませんね」  彼はそう言うが、本当に痛むのか。冷や汗が滲んでいた。 「おれ、連れて行きます」  田口は澤井を見る。脱水事件の時みたいに、彼に持っていかれたくないからだ。澤井はじっと田口を見てから、軽くため息を吐いた。 「わかった。行ってこい」 「ありがとうございます!」 「それと、」 「はい」 「こいつの受診が終わったら田口、おれのところに来い」  ――なぜだ?  そう思いつつ、「わかりました」と答えた。 ***  田口は、保住の車を庁舎の前に乗り付けてから、彼の車を運転する。こういう時、徒歩だと不便なものなのだと思った。保住の車は、水色の小さい普通車だった。  こだわりがないというか、どうでもいいのだろうな。そんなことを思いつつ、ルームミラーで後部座席の保住を見つめた。 「可愛い車ですね。相変わらず」 「みのりからのお下がりだ。一々言うなよ……いたた」  乗る時も冷や汗たらたらの彼は、本気で痛むようだ。 「打撲とはいかなそうだ。筋肉ないから。てき面ですよ」 「そう言われても……」  言葉も出ないようだった。保住はじっと痛みが和らぐ姿勢になって黙り込む。澤井から指示された整形外科に到着し、一時間の待ち時間を終えて通院に漕ぎ着けた。 *** 「圧迫骨折?!」  事務所に戻ったのは昼過ぎ。留守番をしていた三人は、呆気に取られている様子だった。 「腰部の圧迫骨折です。自宅安静だと言っていましたが」  痛み止めを山のように出されたお陰で少しは動けるが、それでも座っているのもキツイのだろう。 「コルセットができるのに数日かかるので、それまでの間の辛抱です」  腕で机に体重をかけるが、どうしようもなさそうだ。 「痛い……」 「係長って、本当に話題に事欠きませんね」 「圧迫骨折って、年寄りの病気じゃないんですか?」 「まさか、こんな事になるとは……」  みんなが心配そうにしている中、田口は澤井のところに向かう。保住は帰さないといけないだろうし、呼ばれていた内容も気になったからだ。 「田口です」  声をかけると、澤井の声が聞こえてくる。 「入れ」 「はい」  澤井は詰まらなそうな顔で田口を見ていた。 「――で」 「はい。圧迫骨折です」  病名を告げると、澤井はため息だ。 「全く手がかかる。早く帰らせろ。安静にしないとダメじゃないか」 「はい。医師からは一カ月は安静にと言われましたが」 「言う事きくわけがないな」 「その通りです。せめて二週間は自宅で安静。コルセットをして、無理をしない約束なら復帰もいいかもしれないが。それも、再受診をしてからの許可がないとダメと言われました」 「だろうな。この忙しい時に。あいつは昔からそうだ。肝心な時になにかしでかす」  面倒そうな言い方だが、表情は固い。  ――ああ、そうか。心配しているのだ。そうか。局長はやはり、保住さんが大事。 「ともかく。二週間は、自宅安静にするしかあるまい」 「はい」  澤井はまた軽くため息を吐いてから田口に書類を一枚差し出した。 「明日から、関口圭一郎とオーケストラが来日する」  書類の中身は、オーケストラの練習日程と場所が書かれている。 「本来は保住に行かせる予定だったが。あいつが使い物にならないのなら、お前行ってこい」 「おれ、ですか?」 「白丸が付いているところは、佐久間と一緒だ」  東京への出張が一カ月で五回の予定になっている。 「わかったか」 「承知しました。しかし……」 「お前は嫌いだが、少なくとも他の奴らよりは任せられる」 「すみません」  ――嫌いか。  田口は素直ではない澤井の態度に笑ってしまった。

ともだちにシェアしよう!