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第15章ー第126話 戦線離脱

 ひどい目に遭うとはこういうことだ。 「ッ……」  ベッドで横になっていても、少し動くだけで激痛が走る。一人での生活は到底、無理な話だった。  結局、痛みでほぼ動けず、ものすごい時間をかけて車に乗り込み、実家まで運ばれた。  事前に連絡をしていたおかげで母親が待っていたが、彼女もどうすることもできない。二階に上がることもできず、一階にあった父親の使っていたベッドに横になったものの、痛みがひどくて眠ることなんてできなかった。食べたり飲んだりする気力もなく、トイレに行くのですら大仕事だ。 「なんて様だ……」  落胆していた。明日から関口圭一郎たちが来日をして、本番に向けた追い込み時期なのに、仕事を休まなくてはいけないだなんて、保住にとったら死よりも辛い宣告だ。精神的な焦りや落胆が、痛みに拍車をかけるのかも知れない。  痛み止めは、飲み薬では到底追いつかず、座薬も使いながらだ。六時間は効くと言っていたのに、数時間もすれば、すぐに痛みが出てくる。 「田口に鍛えておくようにと言われたのに。自業自得だな……」 『また来ます』  彼はそう言って帰っていった。 「また、あいつに迷惑ばかりか」  情けないことばかりで不甲斐なく思った。いい加減、自分のことを見直さないと……そう思いつつ、痛みがひどすぎる。涙が出てきた。大人だと言っても、相当の痛みには堪えかねるらしい。まとまった睡眠がとれない分、こうして気を抜くとうとうとするのだ。  ――早く治さなくては。  そんな焦りばかりが胸をいっぱいにしていた。 *** 「田口(たぐ)ちゃん、行くよ」 課長の佐久間の声で、田口は顔を上げる。 「はい」 「係長の分まで気張ってこいよ」  渡辺たちに見送られて、田口は佐久間と一緒に駅に向かった。今日は関口圭一郎が率いるオーケストラの初回練習日。彼らは、一ヶ月半、日本に滞在し、全国各地でツアー演奏会を行う予定になっている。そして今日は、オペラ練習の初日というわけだ。  初回の練習に担当者が顔を出さないわけにはいかない。本来であれば、顔見知りの保住が行く予定だったが、なにせ全くと言っていいほど動けない。明日にはコルセットができると聞いているが、電話をしても痛みで辛い様子に変わりはなさそうだった。  新幹線に乗ると、佐久間は大きく欠伸をした。澤井のワンマンぶりがすごくて、課長である佐久間と関わる機会が少ないが、温和で穏やかなタイプだ。 「田口(たぐ)ちゃん、これ」  佐久間は温かい缶コーヒーを差し出す。 「佐久間課長、いつの間に買ったんですか?」 「田口(たぐ)ちゃんが切符買ってくれているときだよ」 「ご馳走様です」 「田口(たぐ)ちゃんって、礼儀正しいよね~」  佐久間は、にこにこっとして田口を見る。少し小太りな中年男子の佐久間と並んで座ると、なんとなく窮屈な感じはするが、まあそれはそれなのだろう。田口も体格がいいのだから仕方がない。本来なら、ここに座っているのは保住の予定だったのに。 「関口圭一郎って、世界的に有名だもんね。テレビにも出ていたっけ」  そう言いながら資料を眺めている。田口はちょっとそれを覗き込んで、首を横に振った。 「すみません。おれ、テレビでも見たことがありません」 「素直だな~。それ、本人の前で言わないでよね」 「すみません」  「それにしても、局長に『よくリハーサル見てこい』って言われたけどさ。おれ、音楽のことはちょっとしかわからないんだよね」  佐久間はそう言うが――。 「それを言うなら、おれです。音楽は全く触れたこともありません。おれなんかが聞きに行ってもいいものかと思案しています」 「そう? 田口《たぐ》ちゃん、音楽は全くやっていなかったんだっけ?」 「剣道ばかりです」 「へ~。だから姿勢いいんだ。羨ましい。いいね」  佐久間はそう言うと、田口の幼少時代について色々と話しを振ってくる。話上手、聞き上手と言ったところか。澤井や保住とは、全く違ったタイプの佐久間との時間は、田口にとったらなかなかいいものであった。

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