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第16章ー第128話 痛み、貰い受けたい

 オペラは全曲通すと二時間の超大作だ。それの譜面読み合わせとなると、かなり膨大な時間を要することは、素人の田口でも理解できた。 「今日は何時まで練習予定なんですか?」  佐久間の問いに有田は平然と答える。 「今日は九時まで会場を押さえてあります」 「そんなに?」 「体育会系ばりですね」  田口の感想に有田は笑った。 「音楽家はインドアみたいなイメージかもしれませんが、体力勝負なんですよ。マエストロですら、オフの日でも半日は筋トレやジョギングをして身体づくりをします。二時間ずっと同じ状態で指揮をしなければなりません。楽器演奏者も然りです。途中で、疲れたからと言って、ポジションが崩れれば、音も崩れますから。常に、いい状態で楽器を支えたり、演奏しなければなりません」 「長期戦ですね」  田口は感嘆の声を上げる。 「田口さんはスポーツ系ですか」 「田口は剣道をやっていたのです」  佐久間が答えると、有田は頷く。 「そんな感じがしますね。剣道も駆け引きがあるし。精神的に鍛えられそうですね」 「いや。今のお話を聞くと、音楽家の方ほどではありません」  三人は並んでステージの上を注視した。そのうち、ステージ袖から人が出てきた。どうやら休憩時間に入った模様だった。 「休憩にします」  女性の声に、圭一郎は指揮棒を置いた。  『二十分休憩』  団員たちは楽器を下ろして、ざわざわと休憩に入る。圭一郎も伸びをすると、ステージから降りてきた。 「行きましょう」  有田に促されて、二人はステージ下まで歩いて行った。 「有田、お腹空いた」 「そんな事より」 「そんな事ではない! 最優先事項だ!」  圭一郎は怒っている様子だったが、有田は相手にしないように、涼しい顔で田口たちを紹介してくれた。 「マエストロ、梅沢市役所のお二人ですよ」  関口圭一郎と言う男は優しい目をした初老の男だった。短く刈ってある髪は白髪が混じっている。銀縁の楕円の眼鏡。痩せていているせいなのか、スリムな顎は彼の顔を小さく見せる。 「梅沢……」  圭一郎は二人を交互に見て、急に大きな声を出す。 「なんと!」 「へ?」 「あ、あの」 「あの子はどうした!? 楽しみにしていたのに! おお! なんたる事だ! 神は試練を与えるのか!!」  佐久間と田口は、ぽかん。圭一郎は顔を両手で覆って嘆く。有田は苦笑いを浮かべていた。 「マエストロ、保住係長さんは体調を崩されたようですよ」 「体調だと!? 大丈夫なのか?」  今度は、いきなり佐久間の腕を掴んで振る。 「体調が悪いって……えっと、なんだっけ?」 「佐久間です」 「そうだ、――佐久間くん!」  困っている佐久間は、田口を見る。 「あの。係長は転倒いたしまして。圧迫骨折です。申し訳ありません」  田口の説明に、今度は田口のところに駆け寄った。 「本番は間に合うのか? 有田! 次の練習は梅沢でやるぞ!」 「ご冗談を。無理です」 「なんたる事だ……!」  彼はよほど保住と会うのを楽しみにしていたのか。田口は内心面白くない反面、ここまで大袈裟なリアクションを見せられると唖然とするしかない。そして、途中からおかしくて笑いそうになった。 「本番の頃には、復帰いたします」 「そうか、もう会えないのでは残念だが……もう少し先のお預けなら我慢しよう」  圭一郎は田口を見る。長身で大柄な田口と、同じ高さの目線の人間は珍しい。 「君は?」 「保住の部下の田口です。保住の代わりで参りました。なんなりとお申し付けください」  真っ直ぐに目を覗き込まれると恥ずかしいが、田口は臆する事なく応える。 「気に入った!」  彼はそう言うと、田口の肩を引き寄せてハグする。 「君は日本人らしくていい! 気に入った!」 「あ、ありがとうございます……」  人に抱き寄せられるのは慣れていない。隣にいた佐久間は「自分ではなくて良かった」と言う顔をしていた。 ***  夕方の新幹線の中、佐久間は疲れ切ったのか寝入っていた。そんな彼を残して、田口は携帯を手にデッキに出た。数回のコールの後、耳に響く声は掠れていた。 「終わりました」  田口の言葉に相手は『ありがとう』と言った。 「音楽の事は、わかりませんが、有田さんの話ですと順調との事です」 『あの人がそう言うなら、間違いないのだろう』  ――有田の事を高く買うのだな。  最愛の人が、自分以外の人間を褒めるのは面白くない。 「係長、次は来週末です」 『おれは行けそうにないな。またお前に迷惑をかける』 「おれは構いませんが。痛みはいかがですか?」 『変わりない。明日コルセットが出来るというが。取りに行くのがまた一苦労……っ』  時折、痛そうに言葉を切る。横になっていても、躰が動くと痛むのだろう。 「お供いたしますか?」 『仕事があるだろうが。そんな過保護されなくていい』 「しかし」 『車の運転は夢のまた夢だ。母さんに同伴してもらう。一人で病院も行けないなんて、この年で恥ずかしいものだな』 「仕方ありませんよ。本来なら入院してもおかしくないんですから」  ガタンゴトンと低く響く音は心地いい。壁に背を預けて田口は目を閉じる。 「……あなたに会いたい」 『田口』  保住は気恥ずかしそうにして、黙り込んだ。 「明日、仕事帰りに立ち寄ってもいいですか」 『忙しいのだ。無理をすることはない』 「いいえ。是非お願いします」  ――保住さんに会いたい。  ――保住さんに触れたい。 『好きにしろ』 「ありがとうございます」  ――代わってあげられたらいいのに。痛みくらい。受け取れる。  仕事も出来なくて、きっと辛いだろう。携帯を握りしめて、真っ暗な外を眺めた。

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