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第16章ー第130話 舞い戻る
オペラ上演一週間前になった。
「やっと出てきたのか」
教育委員会事務局長室に立ち尽くす保住に、澤井はちらりと視線を寄越すが、呆れたようにため息を吐いた。
「顔色が悪すぎるぞ。一日持つのか」
コルセットをしてはいても、三週間も寝込んでいた影響で躰を支える体力も筋力も随分と落ちたようだ。こうして立っているだけで、疲れを覚える。横になりたいと思ってしまうのだった。
「なんとかします」
「痛み止めは?」
「一日三回です」
「はあ……。お前の空けた穴は、田口が塞いでいた。お前がいなくて滞っていることも多いが、できないわけではない」
澤井に促されて腰を下ろした保住もため息しか出ない。今回ばかりは、自分の不注意が招いたことだ。みんなに迷惑をかけていることは重々承知。後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
「お前の父親もそうだが。躰が弱すぎる。この仕事、休みがちだと寝首をかかれるぞ」
「申し訳ありません」
じんと重い痛みは、受傷したばかりの痛みとはまた違う。じわじわとダメージを与えてくるのだった。
「動き始めれば、なんとかなるかと考えています」
「甘い見積もりだな。お前らしくもない」
「そうでしょうか? 少しずつ復帰させてください。足手纏いにはなるつもりはありません」
「痛みがある奴になにができる」
澤井は保住の目の前に来て、彼の顎に手を当て上を向かせる。背中が自然と反る形になると、チクリと痛みが走り顔をしかめた。
「ほらみろ。これだけでも痛むのだろうが」
「そんな物は想定内です」
そう言って立ち上がろうとするものの、ソファの高さは低くてキツイ。
「強がるな」
澤井は苦笑して、保住の手を引いて立ち上がりを手伝ってくれた。
「すみません」
「強がりはむしろ周囲に迷惑。一日キツイなら時間を短縮しろ。肝心なところだけ顔を出せばいいい。後はメールで何とかなるものだ」
「ありがとうございます」
立ち上がってしまえば手を借りることはないが、澤井は手を離す気がない。保住は顔を上げると、澤井は心配そうにこちらを見ていた。
「すまなかったな。無理をさせたのだろう。このオペラの企画は強行スケジュールだったからな」
「澤井さん……」
保住は素直ではない言葉を口にしようとするが、その言葉をやめて頷いた。
「あなたの教育委員会事務局長の最後の花道ですからね。悪態ばかりで素直ではない部下だったかもしれませんが、あなたには色々な事を教えてもらいました。感謝しています」
「そんな風に思ってくれているのか」
澤井は苦笑した。
「素直ではないのは、あなたも一緒ですからね」
「そうだな」
澤井の腕が腰に回ってきたかと思うと、一気に引き寄せられた。腰を支えられたおかげで、痛みが和らぐ。
「仕事中ですが」
「田口にこうしてもらっていろ。楽なはずだ」
澤井との距離が近い。なんだか気恥ずかしくて、保住は視線を逸らした。
「勘弁してくださいよ」
「たまには触らせろ」
「嫌です」
そっと床に降ろされて、保住は頭を軽く下げる。屈む姿勢が一番辛いのだ。
「失礼します」
「帰るときは帰れ。休めるときは休めよ」
「ありがとうございます」
保住は軽く頭を下げてから事務局長室をあとにした。
***
澤井は静かになった部屋を見渡した。
――この部屋にいるのも、後一週間か。
「おれには次があるのだ。保住」
口元を歪める。一週間後、自分は更に高見を目指す。そして、自分の人生をかけた夢を叶えるための第一歩を踏み出すのだ。そう、それはまだ第一歩に過ぎないのだ――。
「お前にはまだまだやってもらいたい事があるのだ。お別れとはいかんな」
そのためには、保住や田口が必要だ。澤井は窓の外に視線を向けて、浮き足立つ自分の気持ちに微笑を浮かべていた。
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