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第17章ー第141話 変わりたい。変われる?

「で? なにを悩んでいる?」 「えっと……。報告書が通りません」 「おれも最初は全くだ。一か月かかったこともある」 「そんなに? ――ですか」 「そういうもんだ。で、どこが悩み?」  あっさりと言って除ける田口だが、「一ヶ月も通らない報告書ってあるのだろうか?」と、十文字は疑問でいっぱいになった。十文字は報告書の赤ペンをされたものを田口に見せた。 「この表現が違うって言うんですけど。悩みます。前回はこう書きましたが、ダメでした」 「なるほどね」  書類を眺めている田口を見て、十文字はずっとここに来てから思っていることを口にしようか、どうしようかと惑った。 「あの、田口さん――」  彼は優しい目を瞬かせて、十文字を見つめていた。きっと、何を言い出すのだろうと、興味を持ってくれているに違いなかったのだ。十文字は緊張した。正直、こんなことを口にしていいものかと、ずっと悩んでいたのだが。保住が信頼を置いている田口だからこそ、尋ねてみたいと思ったのだった。 「係長って優秀だなって思いますけど――結構変わっているし。本当についていっていいものなのでしょうか? の書類は、前の部署では一、二度見てもらえばOKでした。内容よりも期日優先でした。こんなに期日を過ぎていてもいいものなのでしょうか」 「それは。そうだね」 「ですよね」  ――よっし、おれ正しい!  保住と懇意にしている田口もそう思っていたのかと思うと、嬉しい気持ちになったのだ。しかし、田口は真面目な顔でこちらを見ていた。 「十文字。だけど、それでお前はいいのだろうか」 「え?」  田口は続ける。 「不本意な、納得のいかない文書を出して、お前はそれでいいのだろうか」  田口の問いに、口ごもってしまった。言葉がみつからないのだ。  ――だって仕方がないじゃないか。 「でも。期日が……」 「それはを付けているだけだろう」 「理由――ですか」 「そうだ。できない理由だ」  田口の言葉は十文字の胸に突き刺さった。それは、傷ついているとか、そんなセンチメンタルな理由ではない。自分が一番よくわかっている痛いところを突かれたからだ。 「おれはそうは思わないよ。いいか? 自分の作った文書は、係長だったり、課長だったり、事務局長だったりの名前で外に出るものだ。妥協して、どうでもいいよね、ではないよな? 文書って書いた人の力量が図られるものだよね。十文字もそう思わない? どうでもいいクズみたいな文書見た時に、その人のこと尊敬できるか?」 「できません。こいつ頭悪いなって思います」 「だろう」  十文字はそっと田口の手元を見る。保住とやり取りをしている書類だった。彼もまた悩んでいた。赤ペンは保住の直し。  ――青ペンは?  きっと、田口の思考の様子だ。書いては消し、訂正されては丸が付いて……。びっしりとなにか書き込んである。 「田口さん」 「おれは馬鹿だからね。こうして時間がかかるんだ。だけどあるレベルまでは持っていきたい。終わりはないよ。書類の文書って直そうと思うときりがないんだけど。期日のギリギリまで試行錯誤して、最良のものを出したい」  そんな話は聞いたことがなかった。十文字は心が戸惑う。  ――頑張るなんて大嫌い。めんどくさいもの。ある程度できたらいいじゃない。 「十文字は、それができるタイプだと思うけど」 「そうでしょうか。おれはいつも逃げて。楽な道を選んでここまで来ていますから」 「でも、そんな自分のこともよく知っているじゃない」 「そうですけど」 「なら、変われる」 「変わる?」  変わるなんて、考えたこともない。自分が好きだ。頑張らない道を選ぶ自分が好き。  ――好きなのか? 本当に?  今までの人生でも、いつも逃げて自分に理由を付けて諦めてきたものも多い。  大学の選定もそう。高校時代の初恋の人もそうだ。本当に好きだったくせに、あの人に好きな人がいることを知っていて、結局身を引いた。身を引くというほどのこともない。ただ勝手に好きになって、勝手に諦めただけだ。それだけのこと――。  なにも頑張っていない。  なにも始まっていない。  だから傷つくこともなかった。  それだけの話だ。 「すまない。仕事で忙しいところなのに、余計な話だ」  反応の薄い十文字に、余計なお世話だと思ったのだろう。田口は話を打ち切ろうとする。十文字は首を横に振った。 「本当。そうですね。そうなんだと思います。やだな。田口さんに言われちゃったな」  知っていて蓋をしてきたこと。 「変わりたい、変わらなくちゃって、本気で思っているかというと、まだまだそこまでは思えませんけど」 「そう? でも。今日こうして残業して書類のことばっかり考えている十文字は、かなり一生懸命に取り組んでいると思うけどね」 「確かに。その通りですね」 「本当はもう、変わり始めているのかも知れないな」 「……変わり始めている……」  十文字は書類を握ってから田口を見つめる。 「田口さん! お忙しいのを重々承知でお願いしていいですか」 「なに?」 「付き合ってください」 「ええ!?」  田口は顔を赤くして驚く。それを見て十文字は怒った。 「勘違い(はなは)だしい反応はやめてください!」 「すみません……」 「報告書づくりを教えてください。お知恵を貸してください! って意味です」 「ごめんなさい……」  急に熱い十文字の反応は受け止めきれないのか、「付き合います。付き合いますから……」とだけ答える田口であった。

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