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第19章ー第152話 今ある幸せ
「保住さん、そんな頭ではいけません」
「うるさいな~。田口は」
起きたままの恰好で出ていこうとする保住を、田口は櫛を握りしめて追いかけてきた。
「別にいいじゃないか。誰に見せるわけでもないし……」
「社会人としての最低限のマナーです! 顔、洗いましたか?」
「洗ったって」
――うるさい。
田口は小姑みたいだ、と保住は内心思う。
「一緒に住みます」宣言から、数日後。田口は本当に引っ越してきた。その行動力の凄さに呆気に取られた。仕事もそのくらい熱心だといいのに――と笑ってしまった。
保住の住まいは、2LDKの古いアパートだった。鉄筋の作りなので、他の部屋の騒音も少なく、比較的暖かいから気に入っている。元々、そんなに広いアパートはいらなかったのだが、不動産屋に押されて押切られた過去がある。
『市役所さんなら、すぐお相手も見つかります。子育てにも良い物件ですよ』とか言っていたが……今の保住には、程遠い話であった。
しかも同居人となるのは、可愛らしい女性でもなく――この大型犬になろうとは。当時はこんなこと、想像もしていなかった。
間取りは玄関を入ってすぐ左手がトイレで、その奥が、寝室。玄関から右手に折れると、バスルームがあり、その奥がもう一部屋とリビング、キッチンだ。南向きのいい部屋だった。古くて家賃が安い割に広々している。
荷物が少ない保住のアパートに、田口は身の回りのものだけ持参してやってきた。
絡まっている髪の毛を梳かし田口は、保住の肩を叩いた。
「できました。行きましょうか」
「そうだな」
さっきまでの慌ただしさはない。保住はじっとしていたが、田口を振り返って見上げた。
「朝、身支度を整えると、心が落ち着くのだな」
「そうですよ。なんでもそうです。落ち着かないときこそ、きちんとするのです」
「そうか」
妙に納得してしまった。いつも寝坊ギリギリだ。バタバタと出ていくおかげで、仕事に行っても落ち着かない気持ちのまま一日が始まることがほとんどだ。ついこの前、転倒したのもその流れである。心落ち着ければそんなことにはならなかったかも知れないのだ。
「お前と住んで、いいことがあるのかと思ったが、勉強になった」
「なんです? それ。いいことないと思ったんですか?」
「それは……」
保住は口ごもった。肯定しているからだが、素直に「そうです」とは言えないのが保住である。そんな彼の様子に気がついたのか、田口は苦笑いを見せた。
「まあ、そうでしょう。おれも正直、想像できません。今でも。本当に思い切って引っ越してしまいましたが、急にあなたにそっぽ向かれたら行くところがなくなります」
「そんなことにはならないだろう。——きっと」
「そうですか?」
「田口」
保住はじっと田口を見上げた。
「これからのことはおれにもわからない。心配しても仕方がないと思うのだ」
「はい」
「だから、今を楽しむしかないのではないだろうか」
「それはそうですね」
じっと見つめると、田口はそっと唇を寄せてきた。油断した。唐突なことに驚いて、躰をのけぞらせた。
「な、なにを」
「すみません。つい。クセです」
「クセとはなんだ」
「じっと見られると、キスしたくなるって言うか……」
「じゃあ、もう見ない」
「嘘ですよ。嘘」
「いやいや。本気の顔だ。せっかく心が落ち着いたのに。またざわつくではないか」
「キスされるとざわつきます? 少し嬉しいです」
「なにを馬鹿なことを……っ」
「だって。おれの行為で、保住さんの心が揺れ動くなんて――なんか嬉しい」
「意味がわからないことを言うな。一日気になる。考え始めると切りがなくなるではないか」
「あ! おれのこと一日考えてくれるなんて、嬉しいなあ」
田口は笑顔を見せる。そんな彼を見て、呆れるしかない。ここのところ、田口の推しに参ってしまい、諦めて同意することも増えている。
――田口はこんな男だったのだろうか?
二人の生活は少しずつペースが整ってきていた朝は一緒に車で出勤をする。田口は『徒歩25分くらいの距離なら歩きたい』と主張するが、保住は断固拒否をした。
圧迫骨折をしたのだから体力をつけたり、筋力をつけたりしないといけないと医師からも忠告されていたが、全く持って運動をする気持ちにはなれない。
自分は根っからの運動嫌い。元々、運動神経はいいとは言えないタイプなのだ。
保住は子どもの頃から、自分の体の感覚を知覚する能力が低いのだ。慣れている自宅なのに、あちこちにぶつかることが多い。夜間、ドアにおでこをぶつけたり。角で腕をぶつけたり。指を挟んだり。本当に生傷が絶えない。しまいには転ぶ。やけどするなどなど。凍傷になったり、熱中症になったりするわけだ。
酷いときには、階段で足を踏み外すこともある。目も当てられないドジっぷりである。こんな調子だ。走るなんてことはもってのほか。
田口はどんくさそうに見えるが、それは見てくれの話で機敏だった。一緒に住むようになって、転びそうになったり、落っこちそうになるとすかさず支えてくれる。彼のおかげで大事に至らなかったことが何度あったことか。
先日も「やっぱり、おれがいないと危なっかしいですね」とか生意気なことを言っていた。不本意ではあるが、助けられていると言うことは事実。
――まあ仕方がない。
保住には田口が必要なのだ。
鍵で施錠し、階段を駆け下りてくる田口を見て、保住は笑みを浮かべた。
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