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第19章ー第162話 合唱カフェ
定時になりみんなが残る中、いつまでも席を立たない十文字を帰すために、田口は帰り支度をした。
「先に帰ります」
田口が気を利かせているのが、みんなには理解できたのだろう。渡辺は「それがいい」とばかに、同意した。
「そうだな。お前もお疲れ様」
「田口、お疲れ」
保住からもそう言葉をかけられて、田口は十文字を見た。
「十文字も帰ろう」
「でも」
彼はみんなを見渡す。先輩たちより先に帰るのは……そんな顔だった。だから、あえて田口は帰宅するのだ。
「いいって。帰ろう、帰ろう!」
田口は遠慮がちな彼の腕を引っ張って、事務所から出る。こうでもしないと帰れないからだ。
「田口さん!」
「今日はゆっくり休めよ」
戸惑っている十文字の言葉は無視して、庁舎を出ると掴んでいた手を離した。
「休みますけど。田口さん、真っ直ぐ帰るんですか? なにかお礼したくて……」
「そんなものはいいって」
「そういうわけにはいきません。おれの友達がやっている喫茶店に付き合ってくださいよ」
「いや、いいって」
「係長には、ちゃんと謝りますから」
――そう言う意味ではないのだが。
田口は弱ってしまった。
――早く帰して休ませようと思っていたのに、逆に気を使わせたか。しかし、十文字の気が済むなら良いのだろうか?
「じゃあ、ちょっと待って」
彼はメールを打った。先に出たのに帰宅していないと心配をかけるものだ。十文字と寄り道をして帰ると伝えて、田口は「よし」と言う。
「よしっ! いいぞ。お前の気が済むまで付き合おうじゃないか!」
「いや、そこまでは……」
田口の気迫に十文字は逃げ腰だった。自分で誘っておいて、なんだ? と田口は目を瞬かせた。
***
彼に連れられてやって来たのは、駅の近くにある古ぼけた喫茶店だった。田口にとったら初めてやってくる場所だった。
お洒落な店に興味がないわけではないが、自分のカラーに合わないことも理解している。
友達の店と言っていたが――と、いうことは経営者は田口よりも若いということか。店を眺めてから感心してしまった。
くすんだ灰色の壁は亀裂が入っていて、建てられてから随分と過ぎていることが伺える。木枠の小さい窓からは、煉瓦色の温かい照明が見て取れた。
十文字が昭和な雰囲気の木製の扉を押すと、からんからんとくぐもった鐘の音が鳴った。その音は想像していた以上に低い音で、耳に障ることはない。
外から見ると、閑散としているように静まり返っていたのに、中はなかなか客が入っていた。
「十文字」
カウンターにいた男が顔を上げる。少し長めの前髪を自然に垂らし、その下から覗く瞳は精悍な眼差しだった。鋭いその視線には似つかわしくない黒いエプロン姿はアンバランスな気もするし、逆にそのアンバランスさが彼の魅力でもあるような気がした。
田口がそんなことを考えていると、十文字が手を上げて挨拶をした。
「石田、どうもね! 今日は職場の先輩にお礼がしたくて」
彼の言葉に石田と呼ばれたマスターは、田口を見て頭を下げる。
「いつも十文字がお世話になっております」
「いえ。こちらこそ。田口です。よろしくお願いします」
礼儀正しい二人の挨拶は、堅苦しいばかりだ。
「お腹空いたし。なんかお願いします」
「わかった」
十文字はそばの二人がけのテーブルの椅子を引いたので、田口もそれに習った。落ち着いてみると、店内で流れているのは……。
「合唱曲?」
「あ、気がつきましたか? さすが田口さん。石田は、高校の時の部長なんです」
「そうなのか」
「喫茶店のマスターですけど、声楽家でもあって」
「声楽家とは、それは凄いな」
「まあ、田舎ですからね。喫茶店のほうが忙しいみたいですけど、高校とか社会人合唱団のボイトレの依頼があったり……」
「ボイトレ?」
十文字にとったら当たり前の専門用語も、田口には馴染みがないのだ。
「すみません。ボイストレーニングのことです」
それでもよくわからない。
「えっと。合唱って声が命なわけで……ですが、声の出し方を知っている人が指揮者になるとは限らないんです。そんな時は、声のトレーニングを専門家である声楽家に依頼することがあります」
「なるほど。コーチみたいなものか」
「まあ、そうですね」
「勉強になる。音楽は全く知らないのだ」
軽く頭を下げる田口を見て、十文字は笑った。
「もう。本当に参るなぁ。田口さんには」
「え?」
「こんな年下のおれにまで律儀で真剣に向き合ってくれて。嫌になっちゃう」
「すまない。嫌な思いをさせているのか?」
「だから!」
何を言っても十文字は笑う。田口は少々、弱ってから頭をかいた。すると、そこに石田がナポリタンを持って現れた。
「すみませんね。こいつ。迷惑かけ通しじゃないですか?」
「そんなことは……」
「石田」
十文字は否定するどころか肯定をした。
「本当。迷惑ばっかりかけ通しだよ。田口さんにはお世話になりっぱなし」
「お前な。ほどほどにしておけよ。……どうもすみません。代わりに謝罪しておきます。どうぞ、ごゆっくり」
十文字の様子を見て石田は笑顔を見せた。二人の雰囲気を見ていると、親しい感じが見受けられた。
十文字という男は友達に恵まれているらしかった。そんなほっこりとした気持ちになりながら、田口はナポリタンを食べた。
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