199 / 242

第22章ー第199話 給湯室の噂ばなし

 結局、不穏な雰囲気は拭い去れなかった。  田口は落ち着いて仕事に集中することもできなかった。昨晩の出来事が、胸をざわつかせているのだ。真面目に仕事をしている部署の中で、なんだか自分だけ浮いているような感覚に襲われて、いてもたってもいられない。田口はマグカップを持って廊下に出た。  昨日から野原のことが気になって仕方がなかった。谷口の予算書は、保住と谷口で練り直したものを今朝ほど提出した。昨日はかなり渋られていたが、内容がいいのか、気まぐれなのか。今日はうるさく言われることもなく決済が下された。谷口はほっと笑顔だったが、田口は腑に落ちない。  ――野原課長が市長と繋がっている。だから? それで、振興係に嫌がらせを? いや、振興係ではなく、保住さん個人? そもそも本当に嫌いなのだろうか? たまたま? わからない。  彼の言動には一貫性がない。執拗に邪魔してきたのかと思うと、そうでもなかったり。  それに、野原自身のことに関してもわからないことばかりだ。若くも見えるが、落ち着いているせいか、ある程度の年齢にも見える。  給湯室に行くと、総務の女性たちが立ち話をしていた。こういう場面に出会すのは苦手。彼女たちは総務係の遠藤と大戸と言っただろうか? 明らかにサボりの域だ。本人たちも自覚しているのか、田口をみると嫌そうな顔をした。  いつもだったら、足を踏み入れるのを躊躇うところだが、今日は聞きたいことがある。田口は思い切って、彼女たちに声をかけた。 「あの」 「なんですか? さぼっているとでも言いたいんですか」  明らかに攻撃的だが怯むことなく続ける。 「いや。ちょっと。今日は聞きたいことがあって」 「聞きたいこと?」  二人は顔を見合わせて田口を見た。女性とは頼られると悪い気がしないものなのだろうか。さっきまでの怪訝そうな顔とは打って変わって、二人は田口を見る。 「いや。大したことじゃないんだけど。課長のこと」 「野原課長?」 「私たちだって、そう詳しくありませんけど。――なにを聞きたいんですか」 「えっと」  田口は言いにくそうにしていたが心を決める。 「プライベートとか。年齢のこととか。なんか噂とか……なんでもいいんだけど」  田口の質問に、彼女らは顔を見合わせて意味深な顔をした。 「なに?」 「っていうか。田口さんでしたっけ? なんで課長のこと知りたいんです?」 「いや。その。なんだか不思議な感じのする人だなって思って。ほら。おれたちの席って課長から遠いしね。なにかと接点が多いのは総務係じゃないかなって」  ――そんなおかしな言い訳で通用するのか? 相手は女性だぞ?  田口は内心そう思うが、彼女たちはまんざらでもないのか顔を見合わせてから口を開いた。 「田口さん、知らないんですか」 「野原課長の噂」 「え?」 「野原課長って、保住係長のこと目の敵ですよ」 「え、そうなの?」  ――やっぱり。  自分でもそう予測していたとしても、ここはとぼけるのが一番だと判断した田口は、「へえ」と声を上げた。すると、女性二人は、嬉しそうに視線を合わせた。  女性というものは人になにかを教えるのが好きそうだ。無知な田口に、この件を話すことが面白いと思ったのだろう。 「やだな。田口さん。自分の上司のことなんだから、気がつかないと。他の係長の案件は結構あっさりなのに。振興係の案件は食い入るように見ていますよ。課長は」 「ね~。保住係長の呼び出し率半端ないじゃないですか」  田口は、自分の警戒レーダーの性能は間違いないと確信した。田口の席からは、野原の様子はうかがえない。しかし、目の前に座っている彼女たちが言う言葉は事実のような気がしたからだ。 「野原課長って、ちょっと有名なエリートコースの人じゃないですか。まだ四十手前なのに課長ですもんね」 「確かに。若いの?」 「若いですよ。確か、今年三十五くらいじゃないですか」 「そうか」  落ち着いては見えても、そう自分たちとは変わらないらしい。 「保住係長をライバル視しているんだって、もっぱらの噂ですよ」 「それに、ねえ」 「あれでしょ、あれ」  二人は口を合わせて頷く。 「なに、教えてよ」 「ただってわけには、ねえ?」  ――交換条件? 「ら、ランチは? 夜が難しくてもランチ」  田口は慌てて口走る。こんなこと言って、保住に怒られるのは目に見えているのに。彼女たちが一緒したいのは、自分ではなくきっと保住だ。保住との会食を約束すれば、きっと彼女たちはなんでも話してくれるに違いない。それだけ、女性陣の保住人気は不動のものだと自覚しているからだ。 「今度、係長誘ってランチは?」  二人は目配せをしてから、にこっと笑う。 「まあ、いいでしょう」 「ドタキャンした時には……」 「野原課長に言いつけてやる」 「わ、わかった。わかりました」  田口は両手を合わせる。女性職員の一人、遠藤は得意そうに肩下までのパーマを揺らしながら田口に耳打ちした。 「市長の私設秘書やっている槙さんとは同級生みたいで、槙さんの鶴の一声で出世街道まっしぐらなんじゃないかって」  やはり二人は親しいのだ。 「槙さんと言えば、市役所の影の実力者でしょう? 安田市長、使い物にならないもんね」 「そんな人に目を付けられるなんて、保住係長かわいそうだわ」 「そうそう。私たちはいつまでも係長のファンなんだから!」  応援してくれる職員がいることは嬉しいことだが。女性二人の熱い語りを見ていると、やはり別な意味での不安がある。 「ありがとう」 「田口くん、約束だからね」  田口は苦笑いをして二人を別れた。

ともだちにシェアしよう!