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第22章ー第200話 飼い主

   何度目の呼び出しだろうか。書類を眺めていた彼の双眸(そうぼう)が保住を捉えた瞬間。保住は気がついた。  ――ああ、そうか。  田口同様に、保住も野原に対しての印象の意味を模索していた。なぜ彼が不思議な雰囲気を持っているのかという、その意味を――だ。それが、今日、今この瞬間に理解したのだった。  彼の瞳は不思議な色をしているのだ。彼の印象を不可思議にしているのは、その目の色だった。光の加減で明らかではないが、黒ではないことは確かだ。そして、鳶色(とびいろ)でもない。  ――なに色なのだろう? 淡い緑?  そんな余計なことを考えていると、保住が自分の瞳をまじまじと見ていることなど興味もなさそうに野原は書類を差し出した。 「却下」  ――案の定か。  想定内の反応に、保住は表情を変えることなく意見した。 「課長。却下の理由をお聞かせ願いたい。理由がわからなければ、改善のしようもありません」  保住は野原の机に両手をついて、彼との距離を縮めた。 「理由は問題ではない。おれが却下と言ったら却下」  野原は涼しい顔をして保住を見返す。 「それでは説明責任を果たしてはいませんよ」 「おれがお前に説明責任を果たす義務はない」 「上司とは思えない発言ですね」  保住は瞳を細めて野原を見つめるが、野原はそんな視線など関係ないかのようだった。 「そう? お前は全てを部下に説明をする? ダメな理由」  保住は、はったとした。田口に対して同じような態度を取ったことを思い出したからだ。  しかし今は違う。田口とのやりとりで、人を育てるということはそれではダメだと理解した。時たま、うっかりすると野原みたいな態度になることも承知しているし、反省もしている。保住は前屈みになっていた姿勢を戻した。 「それは一理ありますが。それでは部下が育たないと言うことを学習しています」 「部下を育てるつもりはない。育ちたいなら自分で努力しろ」  野原は、そんな保住の言葉などは採用しないとばかりに、あっさりと言い放った。  ――この人。本当、上司とは言い難い。一人で仕事すればいいのに。きっと、この人と押し問答をしても無駄だ。  これ以上のやり取りは無意味を判断し、保住は身を引く。課長と係長では、まっとうな場面、自分のほうが分が悪いことくらい心得ている。 「課長の言い分の全ては受け入れがたいが、こちらも忙しいのです。ここで言い合いをしていても埒が明かないのようなので、今回は引き下がっておきますよ」  保住の返答に野原は頷いた。 「いい心がけ。少しはが行き届いてきた」 「しつけ、ですか。そう行儀悪くしているつもりはないのですがね」  野原は椅子にもたれる。そして、ぼそっとつけ加えた。 「なにせ、お前のは素行が悪い」 「飼い主?」  保住は目を細める。野原はこれ以上は言うつもりがないのか、口を閉ざしていた。しかし、面白くない。野原は、ただの上司と部下の関係だけではない感情を持ち込んでいるという意味だ。  そして、それは——澤井が関連しているのか? 「課長、あなたは……」 「なあに?」 「あなたは、一体なにが目的なのですか? 一係をいたぶってもなにも起きやしませんよ」  珍しく喰ってかかる保住を横目で見て野原はそれを制する。 「一係をいたぶる? おれはそういうつもりはないが。しかし、こんな場所で話す内容ではないな。保住、わきまえろ」 「では、場所を変えていただきましょうか」 「お前の要望に応じる義理がある?」 「義理はないのでしょうけど。課長は売った喧嘩を引っ込めるほど腰抜けなのでしょうか」  戦闘モードに入った保住を止められる者はそうそういない。しばらく手持ち無沙汰にボールペンをいじっていた野原はため息を吐いた。 「今晩七時に西口」 「承知しました」  ――こんなまどろっこしいことをしていられるか!  イライラした。野原の手から企画書を受け取ると自席に戻る。いつまでも色々なことを不明瞭にさせておくのは面白くなかった。  ――いい機会だ。課長の化けの皮引きはがしてやる。  保住は内心、自分の思うような展開になってほくそ笑んだ。野原は槇に連絡を取るのだろう。そして、きっと――。 「あの男が出てくるに違ない」  自分の飼い主と称するのは澤井のこと以外、考えられない。澤井が絡んでいる案件だとすると、野原個人の問題であるとは到底思えないのだ。市長の私設秘書である槇が絡んでいることは明白だ。  しかし、自分にちょっかいを出してきたとしても、澤井は痛くもかゆくもないのだ。あの男は、保住のことなど捨て駒だと思っているに違いないからだと、保住は思っていた。

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