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第22章ー第201話 連れて行ってください

 その日。定時の鐘が鳴った後。不意に保住からそう声がかかった。 「田口。遅くなる。先に帰れ」  午後から終始不機嫌だった保住の様子を心配していた田口は、最後にそう言いつけられたので、余計に不安になった。他のみんなは帰宅してしまった。これから一緒に帰宅しようと思っていたところ、廊下に出た瞬間にそう言われたのだ。 「遅くなるって、どういうことなのでしょうか。だって――」    彼だって帰宅支度ではないか。  ――これからどこに? また澤井なのか。  田口は一気に不安な気持ちになった。 「野原に呼ばれた」  しかし、予想外の男の名に田口は目を瞬かせた。 「課長に? どういうことなのでしょうか」 「いちいち細かいことは言えないが、あんまりにも理不尽な対応ばかりだ。しかも、意味深な発言をする。おれの飼い主がどうこうと難癖をつける」 「飼い主って……っ」  保住を侮蔑した言い方をする野原が許せない。田口は怒りを覚える。 「そう怒るな。冷静さを欠いたらあいつの思うつぼだ。あいつの言っている飼い主とは、普通に考えれば澤井のことだろう」 「澤井さんと、どんな関係が……」  田口は昼間、給湯室で仕入れた情報を思い出し、保住に伝えていなかったことに気がついた。 「総務の子に聞きました。野原課長は、どうやら私設秘書の槙さんと同級生らしいです」 「昔からの付き合いがあるということだな」 「そうらしいです。もっぱら、そのコネで昇進していると噂されているようです」 「そうか」 「保住さん」  彼はまっすぐに前を向く。 「それだけわかれば十分だ」 「しかし一人で行くのですか? おれも……」  ――おれだって一緒行きたい。だけど……。 「お前を連れて行きたくない」 「それは……」  ――おれは邪魔だということか。  田口は言葉を失った。大事な局面であるはずだ。野原は一人来るとは考えにく。きっと槇も来るのだろう。そんな場所に、保住を一人でやるなんて、できるわけがなかった。だが、こうして「連れて行きたくない」と言われてしまうと、それはどういう意味なのだろうか。  ――おれでは足手まといになるということか。  田口は落胆し、そして保住をじっと見据えていた。すると、保住はふと表情を和らげてから田口の頬を撫でてくれた。 「そんな顔をするな。お前を巻き込みたくないのだ。お前が不必要なのではない。――すまない。これはおれの問題だ」 「だからって、一人で頑張らなくてもいいではないですか」  人通りの少ない廊下。秋になると日が落ちるのが早い。あたりは真っ暗で、非常灯の緑の光が灯っていた。なんだかもの寂しい風景に、田口の気持ちがざわついた。  ――だからって、保住さんを一人ではいかせられない。  田口を気遣って置いていくという意味なのであれば、答えは一つ。田口は保住の腕を捕まえて、強引に身体を引き寄せた。 「なッ」  前のめりになってバランスを崩しそうになって状況がわからなくなっている彼を、そのまま勢いでそばの会議室へと引き込んだ。 「このまま、行かせたくありません」 「し、しかし。田口……ッ?」  真っ暗なその部屋に目が慣れないのか、必死に田口を探そうと視線を巡らせている保住の首に手を当てて、力任せに引き寄せたかと思うと唇を重ねた。 「……田口ッ」  彼は突然のことに驚いているのか、いつもとは違い、抗議の声を上げた。しかしお構いなしだ。自分の気持ちをわかって欲しい一心だった。嫌がる保住を強引に拘束し、乱暴に舌を絡めとる。保住の口角から唾液が漏れ出た。  ざらついていて、甘いその保住の味を堪能したいところだが、そういうロマンチックな雰囲気でもない。  保住に肩を押されたので、致し方なく田口は唇を離した。 「お前……ここは職場だぞ」 「わかっています。だけど――拘束していたい。どこにも行かせたくありません」 「田口……」 「心配です。野原が一人で来るとは思えません。槙も来るでしょう。そんなところに一人で行かせるわけにはいきません」 「……しかし」  田口は首を横に振った。 「足手まといにはなりませんから。どうぞ、おれも一緒に」 「田口……」  腰に手を回したまま、彼を離したくない。心配で不安で堪らない。一人でなんて絶対に行かせたくないのだから。  ――お願いだから、連れて行って!  そう願っていると、保住はこつんと田口の肩に額を当ててきた。 「保住さん?」 「本当。お前は……。いつも一緒にと言ってくれるのだな」 「当たり前じゃないですか」 「当たり前――か」  保住は口元を緩めたかと思うと笑顔になる。彼の笑顔は田口には刺激的すぎる。嬉しい気持ちになるのは、きっと保住もまた自分を大事に思ってくれているに違いないからだ。 「すまない。お前のことは巻き込みたくないのだ」 「いいえ。『すまない』はなしですよ」  保住は田口の手を取った。その反応に応えるかの如く大きな手で握りかえすと、保住は目を閉じて、田口の肩に額をくっつけてきた。  ――一人で頑張らないで。  心の中でそう呟く。  ――できることはするし、邪魔にならないように頑張るから、置いていかないで。  田口は心の中でそう叫んでいた。

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