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第23章ー第206話 お洒落と寝癖の違い
案の定、保住を連れて出勤していくと、渡辺が小さく笑った。谷口も笑いを堪えているのか口元を抑える。そして十文字は素直というか、なんというのか――。
「やだ。係長。頭変ですよ。大丈夫ですか?」と言った。
真っ向から指摘されるのも面白くない。影で笑われるのだって面白くない。保住は思い切り不機嫌な感情を顔に出している。この状況で、平然と彼に話しかける十文字の気が知れないと田口は思った。
「放っておけ。おれの勝手だ」
「でも……」
十文字の口にした言葉を渡辺が止める。彼は、保住の不機嫌なオーラを的確にキャッチしているのだ。渡辺は、補佐としてはよくできた人だ。
「お前、空気読めよ」
窘められて十文字がやっと口を閉ざすのを見て、内心ほっとした。こういう日はそっとしておくに限る。いくら恋人の田口でも手に負えないと思ったからだ。だがしかし、そういう日に限って、いや。いつもの如く課長である野原の声が響いた。
「保住」
昨日の今日であるというのに野原は、どういうつもりなのだろうかと思ってしまう。しかし視線をやると、彼はいつもと変わらない様子で書類に視線を落としながら保住を呼んでいるのだ。
しかし呼ばれた方の保住はいつもとは違う。かなり機嫌が悪い。このまま野原との直接対決となると、ひと悶着が起きるのは目に見えていた。ことが大きくならないように、なんとかしたい。そうは思っていても、田口には成すすべがないのだ。
――澤井さんだったら力でねじ伏せるのだろうか?
槇たちとの邂逅において、保住と澤井との関係性が引き合いに出されたおかげで、田口の心はざわざわとしっぱなしだ。二人の関係を突きつけられる嫌な機会だったからだ。保住は「心配ない」と言ってくれるけど、やはりこの不安だけは永久に拭えないものだのだと理解するしかないからだ。
それにしても、大丈夫だろうか。野原と直接激突しないといいのだけれど……。そんなことを思いながら事の次第を見守っていたが、案の定。田口の不安は的中した。
「おはようございます。朝一からなにかご用でしょうか? 課長」
嫌味くさい敬語に野原は、身動ぎもせずに見ていた書類を差し出した。
「この企画書だが……」
視線を上げてから、野原は言葉を切る。そしてじっと保住を凝縮していたが、ふと彼の頭を指差した。
「服装や身なりの乱れは困る。なんだ、その頭は」
田口は、「地雷を踏んだ!」と内心思う。渡辺や谷口も首を竦めた。波乱の予感。思い切り不機嫌な表情をした保住は、野原を冷ややかに見つめていた。
「これのどこが乱れだと言うのです? お洒落に決まっているではないですか。――野原課長。お洒落に疎いとは知りませんでしたね」
保住の声は大きい。総務係や文化財係の職員は黙って素知らぬふりを決め込んでいたはずなのに、堪えきれずに吹き出した。
「お洒落?」
野原は目を瞬かせる。そんな様子を横目に、保住はしらっとして言い切った。
「あまり流行を知らなすぎるのは良くない。品格を疑われますよ。課長」
「支離滅裂だ」
「無理過ぎるでしょ。係長……」
振興係のメンバーは生きた心地がしない。しかしその堂々たる言い草。無茶なこともハッタリで押し切る保住の強引さは澤井そっくりだと思うしかない。あまりの堂々さに、周囲の人間たちは、一気に保住の空気に引きずられているようだった。
「田舎くさい見てくれは、宜しくないですよ。野原課長」
――保住さんのほうが十分変だろう!?
田口は内心そう思うが、なぜか課の大半が保住の意見に賛同しているような雰囲気。保住の持てる力だ。周囲を巻き込み、いつのまにか自分の味方にしてしまう。
「課長は厳しいんだよな」
「お洒落したっていいじゃない」
そんな言葉が、田口の耳にも聞こえて来た。むろん、それは野原のところにも届いているのだろう。彼は首を傾げていた。
それは当然のことだ。どうみても保住のほうが悪いに決まっている。へんてこな寝ぐせを付けているからだ。それを指摘するというのは上司として当然のこと。
しかし常日頃から、野原に手厳しくされている若い職員たちは保住よりの意見を述べる。確かに首を傾げてしまう事態だった。
周囲の空気が自分を非難するような色になっているとは言え、野原は全く気にしないのだろう。彼は平然と言い放った。
「お洒落とは気の利いた服装のことを指す。おれはその寝癖が気の利いた髪型とは思えない。それこそお前の品格を落とす。忠告してやったが、そう言い張るのであれば、そのようにしておけ。戻っていい」
今回ばかりは野原のほうが正論だ。田口はため息を吐いた。保住は時々、理不尽なことを言い放つ。まあ、そんなところも引っくるめて彼なのだと田口は認識しているが……。
「ありがとうございます」
開放されたというのに、保住は相変わらず不機嫌なままだ。野原をやり込めることは、一筋縄ではいかないということらしい。
彼の昇進は槇の影響があると聞いたが、こうしてみると彼は保住と渡り合えるほどの力があるということだ。
こそこそと野原への不満を話す職員たちも多いし、自分も昨日のことがあるので、好意的に見ることができないのだが、今回ばかりは保住が悪い。
寝癖一つでここまで大騒動になるなんて。そっとしておいた方がいい話題もあるものだ。素直に直せばいいだけの話なのに。
――保住さんって、本当に意地っ張りなんだから。
ぴょんと跳ねた髪が揺れている保住。それを眺めて、田口は「本気で直してやりたい」と叫んでいた。
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