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第26章ー第229話 恋の逃避行
「大変申し訳のない話なのですが、おれは今回の見合いで結婚をする気がないのです」
優愛は田口の言葉に目を瞬かせていた。
「えっと。母親は知らないことなんですけど、人生を一緒に歩むと決めている人がいるのです。母にまだ話せていなくて……あなたを巻き込みました。申し訳ありませんでした。わざわざ梅沢まで来てもらうという手間までかけさせて。本当にすみませんでした」
田口はそう言うとテーブルに手を着いて頭を下げた。
――怒られるかな? がっかりした顔をするのかな? いや。そもそも自分のことなんてどうでもいいと思っているに違いない。がっかりなんてするわけない。自意識過剰だ。
そんなことを思いながら優愛の言葉を待つ。
「田口さん、頭を上げてください」
彼女はにこにこっとして田口を見ていた。
「私も同じなのです」
「え?」
「実は。私もお付き合いしている人がいて。義一郎おじさんには内緒なんです。だから、こんなことになってしまって……」
「そ、そうなんだ」
――なんだ。そうなんだ。
田口は、ほっと胸を撫で下ろした。
「お互い、同じような境遇なんですね」
田口はコーヒーを口にする。彼女は「うふふ」と笑った。
「でもこのお見合いのおかげで踏ん切りがついて、とってもよかったんです」
「え?」
手が止まる。そういう言い方って、あんまりいい内容ではないことが多い。田口は嫌な予感を覚えた。
「佐藤さん?」
「私。大学時代の後輩とお付き合いしています。お金もないし、結婚なんてまだまだって思っていたんですけど。でも、きっと、このまま隠していると、また見合いしろだんて言われそうで。心を決めて今日は、ここに来ました」
「心を決めてって」
「駆け落ちします」
「はあ? ええ?」
田口はコーヒーを吹きそうになる。慌てて側のナプキンで口元を拭った。
「佐藤さん? えっと。あの。彼氏って」
「梅沢に住んでいるんです。ですから、田口さん。お願いします! なんとか時間ギリギリまで稼いでもらえませんか?」
「……」
こうしている間に彼女は逃亡。自分は時間になったらそれを報告するということか。
「しかし。それでいいの? みんなにきちんと話たほうが……」
――ドキン。
心臓が拍動する。
――自分で言っておいて、どうして?
保住とのことが脳裏をよぎったのだ。
――自分はどうなのだ?
ちゃんとなんかしていないクセに。
「ほとぼりが冷めたらきちんとします。彼、三月で大学院卒業なんです。だから。そしたら、きちんとします」
「でも。なにも今日そうしなくても」
「決めたんです。もう」
「決めたって……」
四月になってお互いが社会人になってからでも一緒に住めると思ってしまうが、恋に待ったはないのだろう。かく言う自分だって保住と住むと決めたらそれしかなくて、脇目も振らずに同棲になだれ込んだ口だ。
今回の見合いの件は彼女にとっても衝撃だったようだ。わからなくもない。自分も焦りまくりだった。
『このままじゃ、また、そういう話しを持ちかけられる。保住さんとのことをきちんとしなくちゃ』
そんな思いに駆られて、居ても立っても居られなくなる。公然と言えないのが辛いのだ。
『この人は自分の最愛の人です。一生を共に歩んでいきたいのです』と言いたいのに……。
家族にも言えない。
職場にも言えない。
友だちにだって言えていない。
保住にも言われた。
『お前を傷つけたくない。傷つけられたくない』
だから、秘密。
――本当に、それでいいの?
密やかな恋は危うさを孕んでいることは、重々承知だった。
「協力していただけませんか」
そんな田口の内面の葛藤なんて気にもしない優愛は、まっすぐに見つめてくる。
必死なのだ。彼女に取ったら一大決心なのだから。
田口はため息を吐いた。
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