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第26章ー第230話 好きなもの

 今日は次年度計画について、県担当者との会議だった。県は広いので、あらかたの分野で五ブロックに分けて対応しているのが、今の県庁の実情だ。県内にある中核都市二つを除いて、その他の市町村のカバーをする県庁とはなかなか忙しいところだろう。  梅沢市は市内に県庁を有しているため、県庁からの呼び出しは本庁舎の会議室が多かった。  まだ議会が始まったばかりで、次年度の計画について大きな声では言えない段階であるが、県が決まらないと市町村も決められない話もある。議会でそう大きく変わることもないため、内々の予算案であらかた決めてしまおうというのが通例行事なのだった。  この会議では各市町村の担当課長クラスが集まるべきものであるが、今回は野原の付き添いだった。次年度に異動が内定している者を連れ歩くなんて、野原もなかなか破天荒な男だ。業務から逸脱している。  他市町村でも複数名で訪れているところもあるので、さほど目立たないが佐久間に知れたら苦言を呈されるようなことである。  野原の心の内はわからないが、田口との事で落ち着かない保住を気遣ってくれているのかも知れないと思った。  会議の休憩中に、県の担当者である菜花が、相変わらず愛想の良い笑みを浮かべて保住のもとにやってきた。 「菜花くん。今年もどうぞよろしくお願いいたします」  保住が頭を下げると、彼も丁寧にお辞儀をした。 「こちらこそ。どうぞよろしくお願いいたします。そして、……えっと。初めまして。菜花と申します」  彼は野原に名刺を差し出す。ぼんやりと菜花を眺めていた野原は、はっとして立ち上がり名刺を取り出した。 「梅沢市役所文化課課長の野原です。よろしくお願いいたします」  挨拶を終えた菜花は保住を見つめた。 「悪の帝王をお見かけしないと思ったら、副市長になられたそうで」  県庁とのやり取りはそうない。こうして菜花と顔を合わせるのも久しい感じがした。 「悪の帝王?」  野原は首を傾げてから副市長というキーワードで澤井を引き当てる。そして、珍しく笑い出した。 「くくく」  野原が笑うのはそうない。保住は目を見張って彼を眺めるが、くくくと笑うばかりだ。 「悪の帝王……。悪の帝王……」  野原は何度かそれを呟く。そのネーミングが気に入ったようだ。 「野原さんはお若い。おれたちと同じくらいですか?」  菜花は初対面の野原に興味津々のようだった。 「同じ? 同じ?」  彼は困ったのか。無表情のまま保住を見た。「お前たちの年齢がわからない」と言わんばかりだ。 「課長。おれと菜花くんは同級です。そして、あなたよりも三つ下になります」  保住の返答に、野原は「ああ」と納得したように頷く。そんな様子を見て菜花はますます目を輝かせた。 「すっごくいいですね。野原課長って。中身見てみたい」 「菜花くん、そういう言い方。誤解を生みます」 「そうですか? ご趣味は?好きなものってなんですか? なんかAIロボットみたいで、すっごくいい! 本当、梅沢さんって面白人材たくさん飛び出しますね」  さすがの保住でも呆れているに、野原は真面目な顔のまま口を開く。 「趣味は猫カフェ巡り。好きなものはお菓子……」 「課長。真面目に答えなくてもいいかと。それに猫好きなんですか? 猫」  保住は吹き出す。 「え?」  野原は考え込む。 「そうか……。答えないほうがいい……」 「そんなことありませんよ。もっとお近づきになってください。ね? と言うか。保住くんの趣味や好きなものも聞いたことないけど」 「教えません」 「ひどい!」 「おれだって菜花くんのは知りませんけど」 「おれの趣味もカフェ巡りですよ。陶芸も好きかな?好きなものは、ベンチとか、外でごろりんって昼寝することです」  ――聞いていないが……。  保住は苦笑する。 「ほらほら。保住くんだけ自己紹介まだ」 「おれも聞いていない」  野原にまで促されると、どうしようもない。 「趣味は仕事です。仕事をいかに効率よくするか考えることが趣味」 「そんなの趣味じゃないでしょう?」 「仕事が趣味……それもまた、面白い」  菜花と野原に突っ込まれると疲弊する。  ――この二人。合わせると危ない。  菜花と自分は危険だと澤井に言われたことを思い出す。しかしそれは業務上の話だ。菜花と野原は天然っぷりに拍車がかかる。 「で、好きなものは?」 「ぶどう飴」  保住は堂々と言い放つ。 「ぶどう飴ってなに?」  野原はきょとんとする。 「ぶどう味の飴?」  菜花も首を傾げる。  「露店のフルーツ飴です。りんご飴とか。わかります?」 「懐かしい」 「食べたことある」 「そのフルーツ飴の露店で、最近は様々なフルーツ飴が出ているのです」 「ぶどうに飴がかかっているってこと?」  保住は傍の資料にボールペンでイラストを描く。イラストは苦手だが、丸に棒を足すくらいは描ける。 「こう。大きな葡萄が串に団子みたいに刺さっていて。飴でコーティングされているのです。りんご飴より中が柔らかいからばりっと嚙ることができます。葡萄の甘酸っぱさと飴の甘さ。葡萄の柔らかさと飴のばりばり感がマッチして、最高にうまい」 「おお。知らなかった。食べてみたい」  菜花は目を輝かせる。そして隣の野原も。 「それ、食べたい。作って」 「作れませんよ。これは露店の技ですから」 「露店なんて、ないじゃない。今の時期」 「そうですね」  野原は大層残念がった。 「祭りまでお預けです。たまにしか食べられないから、特別感があるのです」 「なるほど。特別……。特別は特別」  彼はにこっと笑顔を見せた。  ――この人。笑うんだ。  保住は苦笑する。 「クックバックとか、お料理サイトでレシピない訳?祭りまで待てない~!」  菜花が叫んだ瞬間。ふと辺りが静かなことに気が付く。はったとして顔を上げると、休憩時間はとうに過ぎているらしい。ほかの参加者たちは席について三人を眺めていた。またやってしまったかと菜花は苦笑いをした。 「すみません。つい。ぶどう飴の話に夢中になってしまって」  ぶどう飴?  会議室中がざわざわとなる。 「知ってる。祭りの時に売っているフルーツ飴だろう?」 「食べたことないな」 「子供が好きだ」 「葡萄に当たり外れがある」  会議室内がぶどう飴の話で持ち切り。保住はいたって恥ずかしい。咳払いをした。隣にいた野原はそんな様子を眺めているばかりだ。 「申し訳ありません。参加してはいけない会議にまでついてきたくせに、かき回して」 「別に。みんなこの時期は落ち着かない。それより、ぶどう飴。食べてみたい」  そこか。野原は保住の書いたイラストを食い入るように見ている。  ――やはり。変り者。 「それでは、後半再開いたします」  菜花の声に一同は静かになる。静かになると考えるのは田口のこと。  ——どうしただろうか。あの女性。可愛らしい子だった。  田口が、彼女と少しだけ一緒にいるところを見て、なんだか動悸がした。  ――あれが普通。自分が隣にいることが普通ではない。  そう自覚してしまったからだ。自分に対しても気配りをしてくれる優しい男だ。彼女さえよかったら、お付き合いするのが、本来はいいことなのに。自分がいつまでもこうしていることが、田口の人生を狂わせてしまっているようで怖い。  ずっとついて回る悩み。大切が故に付きまとうのだろう。本当にこれでいいのかと。すっかり甘え切っていいのだろうかと――。  保住は大きくため息を吐いて資料に視線を落とした。

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