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第27章ー第239話 お楽しみ会

 ほとんどの職員が帰ってしまい一人で待っていると、保住は六時過ぎに戻ってきた。 「すまない。遅くなった。田口」 「いえ。それよりも、大丈夫でしたか?」 「ああ、大したことのない用事だ」  そうは思えない。大したことのない用事で一時間以上も?  しかも、彼の手には何やら怪しげな紙袋。心が騒いだ。人は自分の理解できないことや、まだ起きていないことで不安を掻き立てられるという。まさにそれなのではないかと、田口は思った。 「帰れる」 「はい。帰りましょう」  パソコンを閉じてから部署の後始末を終えて、二人は庁舎を後にした。外はまだまだ寒い。またいつ雪が降るのかとヒヤヒヤものだった。なにせ今年は雪が多い。こういう時期は下手すると、四月になっても積雪がみられることもある。田口は保住の手を引いて歩き出した。 「今日は歩いていきます」 「どこに行くつもりだ?」 「着いてからのお楽しみです」 「なにを企んでいる」 「それも着いてからのお楽しみです」 「お楽しみばかりではないか」 「だから、いいのではないですか」  保住がため息を吐いたのを見ながら田口は思う。  ――今日は、あれでしょう?  朝の反応からすると保住は気がついていなさそうだし、驚くだろうか? サプライズを仕掛けるのは苦手だけど、なんだか今日はうまくいきそうな気がした。 「それよりなんです? その紙袋は」 「わからん。もらった」 「えっ?!」  ――もしかして、……バレた? 吉岡が自分よりも先に? 「吉岡部長から、ですよね……?」 「そうだが。なにも言わずに渡された」 「なにも言わずに、ですか」 「そうだ。そうだ! お前に聞くといいと言われた。お前は知っていたのか? これがなんなのか?」  保住は突然に田口に握られていた手に力を入れた。  ――嘘だろ……? と思うしかない。  ここまでされて気がつかないとか、本当にどれだけ鈍感なのだ。 「知りませんよ」 「しかし、吉岡部長が」 「それだけを渡すのに一時間以上もかかったのですか?」  逆に意地の悪い質問だとわかっていても尋ねてみる。自分から吉岡との話の内容を言わないということは、込み入った話で田口になんて話せない内容だと言うことを知っているくせに。わざわざ突いてみたくなるものだ。  案の定、保住は「別に、大した話では」と口籠った。本当に面白いと思う。そんなこんなしていると、目的地が見えた。 「着きましたよ。保住さん」  田口の声にはっとして顔を上げた保住は、目を瞬かせた。なにせ、そこは田口のマンションの前だったからだ。 「田口の家?」 「いや。今日、用事があるのはこっちです」  田口はそう言うとマンションの向かいにある小さい飲み屋に顔を出した。古びた雑居ビルの壁には色褪せた紫色の光看板には、『バーラプソディ』と書かれていた。  木で出来た扉を押すと軽く鈴の音がする。中は薄暗いが目が慣れてくると、奥に大きなピアノが据え置かれているのがわかった。 「遅くなりました」 「本当だよ! 待ちくたびれたじゃねーか」  中からは男の怒声が聞こえる。客に対する対応かと思うほど不躾。田口にとったら馴染みのあるところだが、保住にとったら初めての場所だ。きっと自分が初めてここに足を踏み入れた時のような戸惑いがあるに違いなかった。 *** 「田口……」  ここはどこなのだ? と問おうとすると、鈴のような女性の声が響いてきた。 「銀太~!遅い!」  どこかで聞き覚えのある声。女性は真珠のネックレスをし、茜色のワンピースを着ていた。髪型がボブヘアになっているので気が付かなかったが、彼女は作曲家の神崎奈々。 「ああ、係長さんも一緒じゃーん! やっと連れてきてくれたんだね」 「神崎先生。ご無沙汰しております」 「やだやだ。他人行儀なんだから」  彼女は保住を見て、にっこり笑った。 「神崎、立ち話ばっかりしてないで。お客を座らせろよ」  カウンターで煙草をふかしている女性がハスキーな声を上げた。 「そうだったね。今日は、なんて言っても……」 「こらこら。お前が言うなよ」  カウンターに座っている、ヨレヨレのスーツ姿の男性が突っ込みを入れる。さっきの怒声はこの男か。店内には、そう客はいない。カウンターの中に女性が一人。  カウンター席には、男と神崎。ピアノを弾いている女性がいた。薄暗くて顔は見えない。他に丸テーブルがいくつかあるが、座ってくつろいでいるのは、10名いないくらいだろうか。 「保住さん、ここに」  田口に案内されて保住は男性の隣に座った。 「前に住んでいた頃、お世話になって。こちらは、マスターの桜さんで、こちらが常連第一号の野木さんです」    田口の紹介にカウンターの中にいた桜は一瞥をくれるだけ。その代わりに野木が愛想よく笑った。 「野木だ。よろしく」 「保住です」  急に自己紹介されても。保住は笑む。それを見ていた桜は微笑を浮かべた。 「よくこんなむさいのにくっついているな」 「へ?」  ――むさい?  保住は目を瞬かせて桜の視線の先を見ると、そこには田口しかいない。 「桜さん、そういうこと言うのやめてくださいよ」  田口は反論する。 「なに? 田口、どういう……」  話題に混ざりたくていた神崎は、身を乗り出して田口の向こうから保住を見た。 「銀太、よくここで恋の相談していたのよね。みんな、そのお相手が見たくて見たくて待っていた訳」 「な!?」  さすがに保住は目を見開いて田口を見る。 「成り行きです。成り行き」 「成り行きってお前……」 「可愛い上司さんだって聞いていたけど、本当だな。銀太がメロメロになるわけだ。なあ、桜」  野木は愉快そう。カクテルを作っていた桜もニヤニヤと笑っていた。 「本当だ。ほら。どうぞ」  差し出されたのは、ピンクのかわいらしいカクテルだ。 「あの」 「あんたにお似合いだ」 「桜さんまで!  そういう意味で連れてきた訳じゃないんですから!保住さん、信じて下さい」 半分、固まっている保住の肩を掴んで、田口は慌てている。 「まったく、銀太は世話が焼けるね」 「本当だ」  野木は苦笑してから、手を上げてピアノを弾いていた女性に合図を送った。女性は弾いていた曲をやめ、新たに曲を弾き始める。すると、店内の客たちが釣られてその曲を口ずさむ。その声は大きくなりそして、保住の耳に届いた。 「ハッピバースデー、トィーユー……」 「え?」 「今日は、保住さんのお誕生日じゃないですか」  田口はそう言うと笑顔を見せた。怒る気も失せるとはこのことか。田口の直球な思いの表出にかなうものはない。保住は「そうか」と呟く。  ――今日は自分の誕生日か。ああ、だから吉岡はプレゼントみたいなものをくれたのか。 『理由は田口くんに聞きなさい。お父さんの代わりね』  彼の言葉の意味がやっと理解できた。 「ひな祭りに誕生日だなんてね」  神崎たちも歌に混ざり、保住の誕生会が始まる。 「あんたと部署が離れる前に、どうしても誕生祝いをきちんとしたいって言うから」  田口が席を外した間、野木は保住の隣でニヤニヤとしていた。 「そうですか」

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