槇(まき)実篤(さねあつ)。 　彼は今年35歳になる梅沢市長の私設秘書を担っていた。身長187センチメートル。長身で少し日本人離れした彫りの深い造りは、女性の目を惹くには十分すぎる容貌だった。 　しかし彼を残念に見せるのは、その趣味の悪いヘアスタイル。少し長めに伸ばした髪は軽く波打ち、不自然な亜麻色は彼の品位を下げる要因の一つであると、彼自身は全く認識していないようだった。 　槇が市長の私設秘書を担うことになった経緯(いきさつ)は至って簡単。大学を卒業し、就職する当てもなく父親の経営する不動産会社でプラプラとしていた彼を母方の叔父である安田が拾い上げたのだ。 　当時、安田はまだ若く、政治家としての顔の活動も意欲的だった。そのため私設秘書が必要だったのだ。 　元々、槇の父親は旧家の出身で、梅沢駅周辺の一等地を広範囲で所有しており県内でも有数の資産家だった。 　父親はその資産を基に不動産会社を経営していて、全国各地を飛び回るくらい忙しい。帰ってくるのは年に数回程度と言う有様だった。 　そんなボンボンの父親と結婚をした母親もまた、安田家という士族の出で、一般的な常識から少しずれているような女性だった。 　父親不在の家庭で、母親と姉二人に囲まれた生活は、彼にとっては苦痛の連続だった。 　――なに事も思い通りにならない。いつかきっと。自分が自由にできる世界が欲しい。 　槇はいつの間にかそんな思いが強くなって行ったのだった。 ＊＊＊ 　あれは槇が小学校五年生になったある夏の日だったと思う。 　サッカーの練習を終えて自宅に帰ると玄関先で、母親が黒い電話の受話器を持って「あらやだ」とか、「へえへえ」なんて変な相槌ばかり打っていた。 「女って、本当しゃべるの好きだよな」 　そう呟いて彼女の隣を通り過ぎようとすると、ぐいっと首根っこを掴まれる。 「な！　離せよっ」 　ジタバタとしても、ふくよかで大柄な母親の腕力には敵わない。 「ちょっと、静かにおし」 　彼女は槇を嗜めるように鋭く言い放ってから、よそ行きの声になる。 「それは大変じゃない。わかったわ。実篤(さねあつ)行かせて様子みてくるようにするから。うんうん。今晩は家に泊めるから安心して。うん、じゃあね。お仕事頑張って」 　チンと言う機械的な音を鳴らして、受話器は電話機に収まった。 「なんだよ」 「雪(せ)っちゃん一人なんですって。お母さんが急に仕事入っちゃったみたいで。凛(りん)ちゃんは、おじいちゃんの家にいるみたいだからいいけど、雪ちゃん一人になっているみたいなの。あんた行って連れてきなさい」 「別にいいけど」 　――野原(のはら)雪(せつ)。 　隣の家に住む幼なじみ。槇と野原は二日違いの誕生日だった。野原の方がお兄さんだ。産婦人科病院で偶然出会した二人の母親たちは、その時から意気投合し頻繁に付き合いが始まる。 　野原家の父親は整形外科の医師で市内で開業をしていたが、眼科医の母親とは反りが合わずに野原が小学校一年生の時に離婚していた。 　総合病院勤務で忙しい野原の母親は、不在にすることが多く、その際、彼女の実家に野原とその妹の凛(りん)はよく預けられた。しかし、五年生になってからは、野原は祖父母に家に寄らず一人自宅で過ごすことが増えていた。 　凛(りん)とは野原の妹だ。 　母親にお尻を叩かれて追い出されるのは不本意だが、槇は外に出てから野原家のチャイムを押した。 　ビーっという耳触りな音が鳴ったかと思うと、そっと静かに玄関が開く。 「おれだよ。雪(せつ)」 　木製の扉の間から覗く不可思議な色の瞳。 　野原雪だった。