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第5話 満月と緑色

 母親には文句を言われたが、「隣の家だし、なにかあったらすぐに連絡を寄越すように」と言われて、槇は母親の詰めてくれたお弁当を2つ抱えて野原の家に戻った。  野原は嫌そうな顔をしていなかった。  むしろ自分の意見を尊重してくれた槇を見て、ぎこちない笑みのようなものを浮かべていた。  二人は薄暗いリビングでお弁当を平らげて、それをキッチンのシンクに突っ込んだ。野原は、洗い物の仕方を槇に指導するが、自分ではやる気がないらしい。仕方なく槇は生まれて初めて洗い物をするということを経験した。  それが終わると、今度は風呂だ。  自分の着ている泥で汚れた服を確認して戸惑っていると、野原に洗濯機の前に連れて行かれた。 「洗濯する衣類は、ひっくり返して洗う。まずは水を溜めてから、洗剤を入れて……それじゃない」 「は?」  槇の持っているボトルを見てから、野原は首を横に振り、それから四角い箱の粉洗剤を手渡した。 「お前、詳しいのな。やってんの?」 「やったことない」 「へ?」 「本で読んだから」  またこのコメント。  槇は首を傾げるばかりだった。  今日は初体験ばかり。食器洗いもそうだし、洗濯もそう。二層式洗濯機の使い方も野原の指導の元、無事に終了したというのに、自分ばかりさせられている状況は、なんだか理不尽な気がした。  それから適当にお風呂には交代で入った。  男の子の風呂なんてカラスの行水みたいなものだ。髪も乾かす必要もなく、さっさと身支度を済ませると、野原は自分の部屋に上がっていった。  槇はしばらくリビングでテレビを見ていたが、人の家に上がりこんで一人寛ぐというのも、なんだか落ち着かなくなって、結局は野原の部屋に上がって行った。  野原の家はやけに広く感じられた。槇家のように、家族が多いわけでもなく、物が少ないのだろうか。  薄暗い階段を覚束ない足取りで二階まで上がる。野原の部屋は、一番奥だということは、何度も遊びに来ているので知っていた。 「おい、おれも入れてよ」  開かれた扉から、中を覗く。彼は真剣に読書をしているようで、全く槇には気がついていない様子だった。  その日は、大きな月が出ている夜だった。  春先のおぼろ気な月は、窓からその大きな姿を見せていた。窓に向かった勉強机の椅子に腰掛けて、分厚い本を読んでいる野原がいた。  元々、読書が好きな子どもだ。暇さえあればこうして部屋にこもって本を読んでいる。  野原の母親の実家が近くにあり、彼の母親としては、子どもたちをそこに預けたい思いがあるようだったが、野原はそこには行かなかった。  彼はいつもこうして自室で本を読んでいる。  彼の部屋は壁全体が本棚になっていて、ぎっしりと蔵書が詰め込まれていた。しかし、それだけでは収まらず、床にもいくつも積み上がっている本たちが目に入った。  野原は、こうして所蔵している本だけでは飽き足らず、図書館にも通っているということも知っている。  ただ槇からしたら本なんて漫画しか知らないのだ。  なぜ生まれてからすぐに一緒にされて、ずっと一緒に育ってきたのに、どこで自分たちは違ったのだろう。  ――親が違うから?  そもそも人間として別であるということには違いないが、9歳そこいらの槇にとったら、その違った理由が、よくわからなかった。  兄弟みたいに一緒に過ごしてきた野原なのに、彼は自分といることを好んでいないように見えた。  だから野原と話をする時は、どうしても気後れしてしまう自分がいた。  机の照明だけを頼りに、活字を追っている彼の横顔は、なんだか別人のように見える。  野原が外に出るのは学校以外ない。そのおかげなのか、母親の血筋なのか、彼の肌は陶器のように白い。  だから唇の朱色が妙に目立つ。  そして野原がみんなと違っているのは、その瞳の色だ。彼の双眸(そうぼう)は、鳶色(とびいろ)と緑色が混じり合ったような不思議な色をしていた。  母親の話だと、これは生まれつきだと言う。野原の母親は不思議な目の色をしているわけではないのに、どうしてだろう? と槇は思っていた。  だけど嫌いじゃない。むしろ、槇はその瞳を見ていると、まるで野原の中に吸い込まれてしまいそうな気がして心が落ち着かなくなるのだった。  ――野原雪という男はこんな男だっただろうか?  開かれた窓に浮かぶ大きな満月と、野原の姿はこの世のものとも思えぬ、怪しげで不可思議な気持ちを槇にもたらした。    胸がドキドキとして、躰の奥がズキズキと拍動した。今考えれば、この時――槇はすでに野原を見て欲情していたのかも知れない。だが、当時の自分は、そこまで知覚するほど大人ではなかった。  槇はしばらく言葉を失ったまま、野原を凝視していたが、ふと彼が顔を上げた。 「なあに?」

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