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第11話 細やかな喜び

 ぶらりと行くあてもなく歩いていると、見知った男を見つけた。  ――野原(せつ)。  彼は無表情ではあるが、槇からすると「迷惑そうな顔をしている」と受け取れた。なにせ彼の隣には彼の従兄弟である野原朔太郎(さくたろう)がいたからだ。  朔太郎は野原の父方の従兄弟になるようだ。たまたま偶然にも同じ梅沢市役所に就職した縁もあって、こうして野原を見つけるとまとわりつく。  野原は彼が嫌いというわけでもないが、顔もよく覚えていない父親の親族と仲良くするつもりもないのだろう。  「おい。朔太郎」と声をかけると彼は嬉しそうに槇の元に寄ってきた。朔太郎との距離が出来て、野原がほっとしている様子が見て取れた。 「なんだよ。実篤! 久しぶりじゃん」  野原とは対照的に小麦色に焼けた肌と、がっちりした筋肉質の体系で大柄だ。 「お前さ。仕事中」 「そんな固いこと言うなよ。お前たちとそう会えないだろう?」 「雪が嫌がってんのわかんないのかよ」 「え――? 嫌じゃないよね」  朔太郎は野原を振り返ったが、彼は肩を竦めてじっとしていた。 「ほらみろ。っていうかさ。さぼっていると市長に言いつけるぞ」 「な、なんだよ。ちぇっ、相変わらず素気ないんだから。今度飲みに行こうぜ~」  朔太郎は「じゃあな」と野原にも声をかけてから姿を消した。軽くため息を吐いてから野原を見る。 「大丈夫だったか」 「うん」 「朔太郎なんて相手にするなよ。無視しとけ。それから、今日は一緒に帰るぞ。仕事終わらせておけよ」 「うん」  相変わらずの無表情でも、彼は心なしか嬉しそうな雰囲気だ。野原は、表立って気持ちを表すことはない。ただ――。こうして、時折見せる瞳の色が、槇を大事に思ってくれているのだと思ってしまうのだ。  ――これはおれの思い過ごしなのだろうか?  本当は、野原がその姿を他人の前に晒すことを良しとはしたくないのだ。あの瞳の色。昔、みんなが「気味が悪い」と囁いたあの瞳の色。大人になって、その色は随分と薄まったが、それでもなお、彼を不可思議な印象にしていることには違いないのだ。  子どもの頃の小さな世界とは違っているとはいえ、人は自分とは異なるものに畏怖の念を抱くものだ。野原がそのおかげで苦労していないかと心配になるのだ。  ――いや、そうじゃないだろ?  そうじゃない。そうではないのだ。あの双眸に魅入られて、自分のように掴まってしまう人間がいやしないかと気が気じゃないくせに。 「お前、仕事大丈夫?」 「大丈夫って?」 「だから、問題ないか? その。新しい部下たちとはうまくやっているのか」  野原は槇の問いに、少し小首を傾げてから、視線を戻した。 「問題ない。仕事も覚えた。みんなに迷惑をかけているとは思えない」 「いや。お前が問題とかじゃなくて――」 「実篤の言いたいことがわからない」 「だから、いじめられたりしていないかって聞いてんだよ」  大の大人に向かってそんな話はないのだが。野原は、「ああ」と表情を緩めた。 「いじめられてなんていない。みんなよくやってくれる。特に総務係長の篠崎さん。身の回りのことにも気を遣ってくれる」 「な、なんだよ」  いじめられていないのはよしとするが、逆に不安になった。 「篠崎さんは女子高校生みたい」 「お、女、なの?」 「そうだけど」  ――女の係長なんて、ろくなもんじゃない。  槇は嫉妬心を隠しきれない。野原の腕を捕まえると、さっさと歩き出す。 「実篤?」 「ちょっとだけ、付き合え」  人混みを抜けて、それからそばの男子トイレに足を向ける。周囲に人がいないことを確認し、そのまま野原を個室に押し込めた。 「さ……」 「しっ! 声出すなよ」  槇は野原の唇に人差し指を当て、それからそっと彼の目元に唇を寄せた。彼のまつ毛が震えている。陶器のように白い肌が朱色に染まった。  仕事中、野原は槇の知らない時間を過ごす。それがたまらなく嫌だった。自分以外の人間と彼が会話をしているのかと思うと、たまらなくなるのだ。  ネクタイに指をかけてから、軽く引き抜く。それから露わになった首筋を強く吸い上げた。 「――ッ、実篤……」 「印。つけておきたい」 「仕事中」 「いいだろ? 少しくらい」 「市長の私設秘書とは訳が違う」  首筋に浮かび上がる自分の印を見つめていると、野原に躰を押された。二人の距離が少し離れる。  野原はさっさとワイシャツのボタンを締めて、ネクタイを正した。それから、槇がつけたキスマークを見据えた。 「微妙に見え隠れする」 「だからいいんだろ? 今日一日、その印のことだけ考えて、気を遣って仕事をしろ」 「実篤」  野原はじっと槇を見ていたが、そのまま視線を逸らして、個室を後にした。 「帰り。約束だぞ」 「仕事終わらせたいのなら、こんなことしないで」 「だってー」  別れ際、野原の瞳に映った自分を確認する。 「後で」  また会える。すぐに。ずっとそばにいたい。いつまでも――。  槇はそんな思いを押し込めて、市長室に足を戻した。

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