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第49話 あんたはバカだな
槇は副市長室の扉を蹴り飛ばして入り込む。書類の山に埋もれている澤井は、槇の登場に苦笑した。
「おやおや。どうされましたか。槇さん。血相を変えて」
「市長から聞いた! 雪 を……野原を星音堂に異動させる話が出ているというが、一体どういうことなのでしょうか」
澤井は眼鏡を外し、それからくつくつと愉快そうに笑った。
「市長は人事に口出しはできませんよ。槇さんも然り。お立場を忘れて取り乱すなんて……これは一興」
「……っ」
後先考えない性格が祟った。槇は我に返ったが、もう遅い。澤井は書類を置くと、立ち上がってから槇を応接セットに促した。
応接セットとは名ばかりの書類が山積みの事務テーブルの様相だが……。
「そう心乱してはいけませんよ。いい大人でしょう?」
「……どうせガキだ」
澤井はソファに背中を預けると、槇を言い含めるかのように声色を和らげた。
「久留飛からの忠告だろう。槇さんを抱き込みたいのでしょうな。あいつは次期市長に安田の続投を推進している」
「だったら、こんな脅迫まがいのことをしなくとも、協力するのに……」
「しかしあなたは惑っておられるのだろう? なかなか返答もない。しびれを切らしているのでしょうな」
「澤井さん……ずいぶんと詳しいな。あんたの差し金か」
槇の言葉に、澤井は呆れた顔をした。
「やはり、あんたはバカで浅はか」
「う……」
――バカとかガキとか、本当怒る気にもならないな。
「しかし、そうは言うが。当の本人である野原は、この話には乗り気らしいではないか。本人が良しとしているものに、我々が口を出す必要性は見出せないが」
「え? 雪が……? 星音堂に異動を受け入れているというのか?」
「そうだ。そう聞いている。『尊敬すべき水野谷課長の後任は自分が勤めたい』と話しているそうだが。――おやおや。本人に確認してはいかがかな? それともお話できない事情があるのか?」
愉快そうに笑うのは止めて欲しい。自分だって聞けるものなら聞きたい。槇は黙り込んだ。
「――聞けるものなら聞いている」
「ほほう。喧嘩中とは。無駄な時間を使うものですな」
「無駄だと?」
槇はむっとして澤井をにらむ。しかし、彼は動じることもなくにやにやと笑みを見せた。
「無駄だろうが。早く仲直りされたほうがいいのではないか? 絶対という言葉はこの世には存在しない。確固たるものにするには、努力が必要である。努力を怠ったつけは、自分自身で支払うことになるのだぞ」
「澤井さんに、なにがわかるというのです?」
しかし澤井は、ふと表情を陰らせた。
「おれは痛いくらい、何度もそんな思いをしてきた。この年になって後悔しても遅いものだ。若い奴らはそんなことも理解していない。みなそうだ。槇さんも然りだな」
「――あなたは、一体……」
彼は思いを馳せていたが、ふと瞳の色を戻してから表情を変えた。
「久留飛に付くのもよかろう。しかし、おれに付いてもよいのだぞ?」
「あなたに……ですか? しかしあなたは安田下ろしの筆頭では……」
澤井は口元を歪めて笑った。
「おれはね。そんな目先のことなんてどうでもいいんですよ」
――どうでもいい、だと?
「槇さん。おれはね。人生をかけて成し遂げたいものがあるのだよ」
「人生をかけてって……一体、あなたはなにを成そうとしているのですか」
「それは、あなたには言う必要もないこと。だがしかし、おれの行動すべてがそれに繋がっているのだ」
澤井と言う男は、槇の想像を絶する男だった。
――自分の人生をかけるだって? 澤井はおれをバカというが、この男こそ正真正銘のバカ。
違いすぎた。腹のくくり方が。槇のそれと澤井のそれとは、違いすぎる。
――勝てるはずがない。
そして、それは、久留飛のそれとも違って見えた。
槇は、自分が相手にしようとしていた男の底知れぬものを理解し、恐ろしくなった。しかし、その恐れは久留飛に対するものとは違っていた。
澤井の成そうとしていることがなにかはわからない。しかし、澤井という男は、器も大きく、敵である槇のことまで懐に入れようというのか。そんな槇の心中など知る由もない澤井は笑みを浮かべて槇を見据えていた。
「どうだ。悪いようにはしないぞ。久留飛にするのか? おれにするのか? それとも、誰も選ばずに行くのか? ああ、それもまたいい。己のみを信じて突き進むか? 若人よ」
澤井は正直に言って楽しんでいるようにしか見えない。槇は内心むっとしながら澤井を見据えた。
「あなたは成し遂げたいことがあると言うが、あなただって退職 が目の前に迫ってきているのではないですか」
澤井は大きな声で笑い出した。
「やはり、槇さん。あんたは浅はか!」
――悪かったなっ!
「おれはね、そう易々と市役所 とおさらばするつもりはないんだ。あなたもそうでしょう? 違いますか」
「それは……確かに安田は年だ。だが、おれは次期市長選にも安田を推すし、そして当選をさせてみせる」
「頼もしい私設秘書だ」
はったりばかり。本当は自信がない。だから、久留飛に従ったほうがいいのかもしれない。澤井は安田以外の市長を推すと言われている。だからこそ、澤井を下ろして……そう思っていたのに。
――澤井に付くのか? おれが?
「これ以上詳しいことは言えないがな。お前がおれに付くというならば、悪いようにはしない。それだけは約束しようではないか。野原のことも含めてな」
槇はどうしたらいいのかわからなかった。廊下に出て一人になると、足が震えた。
いつもは野原がいてくれる。彼に相談すれば、なんとでもなった。野原が自分を支持してくれているというだけで、心に自信が持てた。なのに。今は――。
――あいつはいない。星音堂 に行くだって? なに考えてんだよ。あいつ……。
槇はイライラする気持ちを持て余していた。
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