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第54話 お弁当

 昼のチャイムが鳴った。槇と会わなくなって一週間以上が経った。こんなに長く顔を見ることもないのは初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。  ――伝えなくてはいけない。自分の気持ち。  だが、心に浮かぶ言葉はどれも曖昧で、一体なにを伝えたらいいのかわからないままだったのだ。 「課長」  明るい篠崎の声に顔を上げると、彼女はお弁当を手にしていた。 「ちゃんとお約束のお弁当、作ってきましたよ。ここではなんですから、ラウンジに行きませんか?」  笑顔の篠崎に誘われるようにラウンジに足を運んだ。  彼女はなにか下心があるのかもしれないが、野原からしたらそのままとしか捉えてはいない。  篠崎という人間が、野原にお弁当を作ってきたという、たったそれだけだのことなのだ。 「篠崎さんはお母さん」  お弁当を目の前にして、野原はそう感想を述べる。 「課長のお母さまじゃありませんよ。もっと女心を理解しないと。本当にお嫁さんなんてきてくれませんからね」 「お嫁さん……」  ——実篤がお嫁さん? ……似合わない。  というか。なぜそこで槇が頭に浮かんだのか。野原は首を傾げた。 「ささ、食べましょうよ」 「いただきます」  手を合わせてからお弁当の中を眺める。焼き鮭、卵焼き、ミニトマト、カボチャのサラダ……。白ごまのふられた白いご飯はつやつやとしていた。 「いつもなにを食べていらっしゃるんですか? お菓子ばかりではいけませんよ。そう若くはないんですから。そろそろご自分の健康のことを気にかけていかないと……」  篠崎はお説教のようにつらつらと話す。しかし、ふと言葉を切った。 「――課長?」 「え?」  顔を上げると、篠崎は心配そうな表情をしていた。 「あの、大丈夫ですか」  ――なにが?  野原は目を瞬かせて篠崎を見つめると、彼女はそっと手を伸ばし、それから手に持ったハンカチで野原の頬に触れた。  はったとして視線を下ろす。 「あの、美味しくないですか? すみません。そんな泣いちゃうくらいまずいなんて……」 「まずくない……え?」  お弁当と箸を置いてから、目元を拭う。  ――あ、涙……?  槇と喧嘩別れした夜みたい。自分でも気が付かないのに涙が零れてくる。 「あの、課長」 「ごめん。篠崎さん。美味しくないんじゃない。――どうしてだろう? なんだか」  篠崎の卵焼きは甘くて心にじんときた。それよりなにより。なぜか、あの槇が作った焦げた料理を思い出したのだ。  ――実篤はどうしている? ちゃんと話しなくちゃいけない。実篤と。  急に彼が恋しくなったのだろうか。不可思議な感覚に、胸がぎゅーっと締め付けられて辛い。息が詰まりそうになった。  ――実篤に会わなくちゃ。 「(せつ)っ!」  幻聴かと思うくらいのタイミングで槇の声が耳を突いた。はっとして顔を上げると、彼は険しい表情で隣に立っていた。 「……実篤……?」 「お前、――ちょっと、来いよっ!」 「な、仕事中……」 「仕事中って……っ」  彼は野原の目の前に座っている篠崎をきっとにらみつける。彼女は一瞬、驚いた表情をしていた。野原は咄嗟に思った。  ――彼女を巻き込んではいけない。 「実篤。離して」 「お前……っ。ちょっと来いよ」  槇は怒りを押し殺すように低い声色を吐いた。  ――なにを怒る? なんで? 怒りたいのはこっち。  野原はそう思うが、彼は構う事なくつかんでいた手に力を入れて野原を引っ張った。 「来いよ」  人の多い場所で騒動を起こすのは不適切と判断する。それから、篠崎に謝罪した。 「篠崎さん、ごめん」 「課長!?」  強引に引き寄せられてラウンジから出る。心配そうな篠崎の顔が見えたが、それに構っている暇もない。  野原は槇に手を引かれて廊下に連れ出された。

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