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第55話 衝動

 野原は勤務中であるということなんて、すっかり頭のどこかに消えていた。槇はお構いなしに、野原の首からぶら下がっているIDをかざして、勝手に退勤扱いにした。 「実篤!?」  珍しく抗議の声を上げる野原を無視して、強引に腕を引っ張って外に出た。すれ違う人たちは、何事かと振り返るが、そんなものは関係ない。 「勝手にしないで」  ――否定するな。 「黙れ」 「離して」  ――自分を拒絶しないで。 「なんなんだよ。あの女」  ――許されないだろ。  野原を駐車場まで連れ出すと、強引に助手席に押し込む。それから、黙って車を走らせた。  野原は、黙り込んでしまっていた。  数日ぶりの野原との再会は喜ばしいはずなのに、そんな余裕はない。苛立ちに支配されている槇は情けないほど余裕がなかった。 「実家、帰ってたんだろう?」 「……そうだけど」 「女の手なんて握って……っ、そんなに女がいいのかよ?」  槇の質問に野原は目を瞬かせた。 「それは……」 「じゃあ、なんだよ?」 「だって……」と言いかけた野原だが、槇の横顔を見てから、瞳の色を弱めた。  ――話しても無駄だって思っているのか?  じっと押し黙った野原に更に苛立ちを覚えた。 「いい加減にしろよ。おれの気も知らないで! お前が出て行って、どんだけおれが辛い思いしたかわかってんのかよ? あんな女と昼飯なんか食って。ふざけんなよ」 「……実篤には関係ない」  後から考えれば、野原の「関係ない」は事実であって、適切な回答なのかも知れないが、その時の槇には、素直に受けとることはできなかった。  野原の気持ちを確かめたくて、信号機で止まった瞬間に、野原の首に手を回して強引に引き寄せた。  重なった唇の感触。  甘い野原の唇の味がしたのも束の間、あの喧嘩別れした夜のように、野原は槇を拒絶した。 「嫌なのか?」 「……嫌に決まっている」  ふっと視線が外れる様を見て、心のざわざわは更に大きくなる。自分にとって、野原から拒絶されることが一番辛いことだからだ。   槇は二人が居を構えているマンションまで、野原を引っ張っていく。それから激情に任せて、彼を自宅に連れ込むと、そのまま玄関先で野原を突き飛ばした。  野原はバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。 「実篤!」    躰を起こそうとする野原を上から押さえつけて、床に張り付けた。 「なんなんだよ……っ、(せつ)。本当にお前は……!」  イライラして、止まらない。こうなると自分自身でも制御することなんてできそうになかった。 「離して! 実篤!」    槇の拘束から逃れようと身を捩る野原は思い通りにならなくて、更に苛立つ。 「おとなしくしろっ」    ふと触れたベルトに気が付いて、野原のそれを引き抜き、強引に彼の両手をまとめ上げた。 「実篤……っ、離して!」 「大人しくしろ! 言うことをきけよ」 「やだっ! こんなのは嫌」 「うるさいっ」  野原の目元は上気して、涙がにじむ。嫌がっているのをよく理解しているくせに、それから目を逸らして、知らんぷりを決め込む自分は、本当に卑怯で嫌な人間だ。  自分を卑下しながらも、衝動に突き動かされて止められない気持ちの行き場を探すかのように、野原のワイシャツをたくし上げて、彼の肌に指を這わせた。 「実篤っ!!」  槇の大好きな白緑色の瞳は光を失い、怯えたように自分を見上げていた。

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