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第4話 失望

 昨日の悪天候が嘘のような快晴で朝から気分が良い。日が高くなると暑くて仕方がないが、早朝なら陽射しを浴びて散歩するのに丁度良かった。僕はすっかり機嫌を直して長身の顕さんに肩を寄せてデッキを歩き始める。すると顕さんが「ちょっとここで待ってて」と言って立ち止まった。理由を訊いてもはっきり答えない。ちょっと妙な気がしたけど、辺りを飛んでいるカモメでも見たいのかなと思ってそのまま横に立っていた。 「餌になるものでも貰ってくる?」僕がそう言いかけたとき、船尾の方から角を曲がって二人組の女性が歩いて来るのが見えた。背格好が似ていて姉妹かなと一瞬思ったが、片方が昨日顕さんと話していた女だと気がついて息を呑んだ。隣りにいる顕さんが女に向かって片手を上げる仕草を見ながら僕の頬は引きつり、気温は暖かいのに背筋が冷えていくのを感じた。 「おはようございます」  女は昨日とは打って変わって早朝だというのに化粧を施した顔で微笑んだ。おかげで昨日よりはいくらか老けて見えるが、笑うと笑窪ができ八重歯がのぞくのに幼さを感じた。隣に並んでいるのは姉妹かと思ったが、近づいてみると目尻や首元のシワが目立つ。おそらく親子なのだろう。僕は返事もせずその場に立ちすくんでいた。顕さんが彼女とその母だと紹介された女性となにか喋っているが、もう何も頭に入らなかった。 …待ち合わせをしていたのだ。  そう考えただけで目眩と吐き気がしてきた。昨日の最悪な気分がまたぶり返して今すぐにここを立ち去りたくなった。僕が昨夜ふてくされて寝てしまったあの後、顕さんはきっとこの親子と会っていたのだろう。そして今朝ウォーキングをする約束をした。わざわざ僕を伴って。    とにかく胃がむかむかするほど腹が立っていた。顕さんにではなく、自分に。  一体何度同じことを繰り返せば気が済むんだろう。自分はつくづく愚か者だと思い知らされる。船旅でなかったらこのまま一人で家に帰りたいところだが、ここは海の上で僕に逃げ場はなかった。ひとり呆然としているうちに勝手に話をつけた顕さんは母親の方と連れ立ってさっさと先に行ってしまった。狙っていたのは若い女じゃなくて年増の方だったらしい。なるほどな、と他人事のように納得する。  あとに残された娘の方が僕の袖をつまんで話しかけてくる。 「私達も行きましょうか、卓弥さん」  名乗った覚えもないのに勝手に名前を読んでくる女に言葉を返す気力もない。僕は無言でのろのろと歩き出した。別に女に合わせて歩調を緩めているわけじゃない。先を歩く二人に追いつきたくなかっただけだ。  本当なら顕さんと二人でデッキを散歩して、その後はルームサービスを頼んでバルコニーで朝食にしようと考えていたのだ。搾りたてのオレンジジュースを飲んで、クロワッサンに、ジャムを塗ったトースト。カリカリに焼けたベーコン、サラダ、フルーツ。その後はプールをひと泳ぎして、ランチは海を眺めながらブッフェ。コーヒーを飲みながらデザートにキーライムパイ。顕さんが飲みたいならまたデッキのバーでお酒を飲んだっていい。そうやって今日は久々に二人でゆっくりできると思っていたのに…  さっきまでのふわふわとした楽しい気分はすっかりしぼんでしまった。 「でもこの船で卓弥さんみたいな素敵な方に会えてよかった。日本人は珍しいでしょう?なんだか気後れしちゃって…あ、私英語がほとんど分からないんですよ。だからこの旅行も乗り気じゃなくて」  卓弥さんとお話ししてみたくて顕さんにお願いしたんですよ、と言って八重歯を見せる。僕が一言も喋らないので無言で歩くのが気まずいのか、女はえらく饒舌だった。お陰で名前は朱美といい、歳は僕より5つ下の22歳だとわかった。そんなこと今はどうでもよかったが。  少し先を歩いていた顕さんと朱美の母親は気がつくと姿が見えなくなっていた。つまりそういうことだ。僕はむしゃくしゃして、朱美に八つ当たりしたくなった。 「こっちに来て」  それだけ言って僕は朱美の細い手首を引いて船首の展望デッキに向かう。朱美はその間もずっと僕の顔が俳優の誰に似てるだとかスタイルが良いとかペラペラと喋っていたがそんなの全く興味もないし甲高い声をこれ以上聞きたくもない。 「ちょっと黙ってよ」  イライラして僕は朱美の唇に自分の唇を押し付けて塞いだ。朱美は一瞬ビクッと肩を震わせたがそのまま目を瞑って大人しくなった。薫ってくる香水の趣味が悪くて僕は心の中で舌打ちした。デッキには老夫婦とヒスパニック系のカップルがいたが誰も僕らのことなど気にもとめない。どこかから顕さんが見ていればいいのに。   唇を離すと朱美は切なそうに息をついて僕の胸に頬を寄せ「急に酷い…キスは初めてだったのに」と呟いた。多分嘘だ。キスもしたことない女がこんな香水を付ける訳があるか。思っていたより面倒なことを言う女で鼻白んだが、僕のような男も顕さんにとって十分面倒なのだと分かっていたから人のことは言えない。 「そう?」と返事して身を離すとそのまま2人でウォーキングコースに戻った。  

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