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ぜんぶ先生が悪いんです①
そもそも先生のせいなんです。全ては先生のせいなんです。
件の男に捨てられた後は泣いてばかりいて、成り行きでそのことを知った先生はよく慰めてくれていた。登校しても彼を見かけるだけで心がぐちゃぐちゃに掻き回される。思い出す、長い腕に包まれ抱きしめられたことを、熱い唇に撫でられたことを、骨ばった指で自分の身体すべてを明かされたことを。全てが全身を駆け巡り、立っていられないほどの悲しみに襲われて保健室に毎回逃げ込んでいた。
先生の顔を見るといつも堪えきれずに涙が溢れた。ここでは泣いてもいいんだと安心して、悲しみを吐露しながらすべてを流していく。
先生はそんな俺にいつもハンカチを貸してくれた。手渡すのではなくて、ハンカチで涙の跡を抑えて、俺に受け取らせる。自分でも持っていたけれど、それが嬉しくて先生の涙の拭き方が優しくて、いつもそれを素直に受け入れていた。
しかし先生はある日、言ったのである。
「出雲見てると……ムラムラする」
いつもぼーっとしていて、どこを見ているのかよく分からない。斜視なのだろうかと思っていたぐらいだ。けれどその時はソファで隣に座ってまじまじと俺の顔を見つめながら、そんなセクハラ発言をしたのだ。
「何言ってるんですか! キモいです」
ドン引きして涙も引っ込み、少し後退して座り直す。けれども先生は膝に肩肘ついて頬杖をし、じーっとまさに穴があくほどじーっと見つめてくる。
あんまり見るのでこちらも目が離せないでいると、今まで気にしていなかったが綺麗な顔をしていることに気がつく。色が白く黒々とした睫毛は長い。二重幅の広い瞼のせいでぼーっとした顔がさらに眠そうに見えるが、見ようによっては儚げな雰囲気へと変わるような。
「最近……忙しくて。風俗に、行けなくて」
「は?」
「家でオナニーしてると、出雲の泣き顔が…………抜ける」
ゆったりとした口調で平然と言ってくるので聞き間違いかと我が耳を疑う。
「抜けるって……」
何かの間違いですか? と続けようとするが、抜けると口に出しただけで恥ずかしくて押し黙ってしまう。先生は首を傾げる。
「イクってこと……昨日も、たくさん……出た」
真顔で言う。なんの臆面もなく。
「き、気持ち悪いです……」
訂正します、ちっとも儚げではない。
ムラムラする程度で会話を終了してほしかったと心から思う。ちょっと意識した自分を馬鹿だと思う。
面と向かうのが心底嫌になり、俯いて肩を落とす。帰ろうかなと思いながら先生を盗み見るとまだ見られてる。どれだけ見るんだろう。気持ち悪い。
顔がたとえ綺麗であっても、前から思っていた。全然好みじゃないと。
背は高すぎるしさらに痩せてるので竹節虫みたいだし、白衣の下に着てる服がいつもよくわからないし(今日の服はUMAと書かれたアルファベットの上に馬が飛んでるイラストが書いてある)、ズボンは丈が合ってなさすぎて足首丸見えだし。本当に全然好みではない。もっと筋肉質なスマートな人が良い。
もうやめよう。変な誤解されても嫌だし気持ち悪いし。もう来るのをやめてしまおう。意を決して立ち上がる。
「も、もう俺で……ぬ、ぬ、抜かないでください。帰ります!」
顔を見るのも嫌でそのまま足早に立ち去ろうとするが、ジャケットの裾がピンと引っ張られる。振り返ると思ったより先生との距離があり、その距離で腕が届くのキモいなと、もう何もかも嫌になっていた。
「約束……できない」
「え?」
「思い浮かんじゃうから……ごめん。今日も、抜くかも」
今日も抜く。俺の泣き顔を思い出して?
頭のなかで反芻して、腹の奥底から頭の先まで一気に何かが噴火するような、血が沸騰するような、とにかく今まで感じたことがないくらい恥ずかしくて、もう、もう、違う意味で泣きそうだった。頭が身体が混乱している。なんだろうこの感情。
「や、や……っ。やですっ! やだ……先生気持ち悪いです……っ!」
気持ちが、感情の昂りが抑えきれず、半泣きになりながらその手を振り払いその場を去った。
しかし帰宅してから気がつき愕然とする。先生のハンカチを持ったままだったと。
紺色に、赤いラインの入ったハンカチ。
こういうものは早く清算してしまったほうがいいと、その日のうちに洗ってアイロンしながら乾かすことにした。さっさと返してしまい、もう卒業するまで保健室の世話にはならないように気をつけよう。
アイロン台の上にハンカチを広げ、正座をして向き合う。いつも姉達のブラウスや自分のワイシャツをアイロン掛けしているが、この作業は結構好きなのだ。角まできっちりシワ一つない様は綺麗だし、理想通り仕上がるととても気持ちがいい。できあがったものに満足して一人頷き、正座をしたまま丁寧に畳む。そうして通学鞄に入れようと手に取ったら、うちの家とは違う香りがふんわりとのぼってきた。
あ、と鼻先をハンカチにそっと埋めると、洗濯したのにまだ先生の香りが残っている。先生のタバコの匂い。ほろ苦いバニラの香りがするのだ。
先生、今日も俺で抜くのでしょうか。
もしかしたら今頃、抜いていたりするのでしょうか。
自分が性の対象として見られ、いわゆるオカズにされていると考えたら……胸が高鳴って腰が揺れた。正座を崩して、腰を回してしまう。それだけじゃ全然足りなくて、前を開いて男性器を取り出すとやっぱり立ち上がっていて。
「せんせい……」
呼びながらそこを握る。ハンカチに鼻を埋めたまま、少し腰を浮かして上下に扱いてしまう。そこはどんどん硬さを増していく。
「せんせい……せんせい……」
普段の自慰と全然違う。動きは単調なのに太ももが痙攣して震えるくらいに気持ちがいい。声なんかいつも出ないのに吐息が漏れ、先生に聞いてほしいと思ってしまったらもっと出た。
「あっ……あっ……せんせ、せんせ……おれのこと、みて……ください……」
目が逸らせないほどじっと見られて。あんなの初めてだった。どんな感情で見ていたのだろう。ムラムラするって言ってたから、えっちしたいと思っていたのだろうか。俺とえっちしたいって……こんなところ見たいって……そんなふうに考えたら一気に絶頂感が増してくる。気が付けば俺も先生で抜いてしまってる。
「ん、ん、イク、いくいくいく、せんせ、せんせぇ……!」
ティッシュを取るのも忘れ、腰を浮かせたままビクビクとしながら、床に精液をビュッビュッと二回飛ばしてしまった。先生で頭がいっぱいだ。どうしよう。
握ったままのハンカチを見つめる。とりあえず、とりあえずは明日これを返さなければ。保健室で先生に会ってこれを……オカズにしてしまったこれを返してしまわなければ。
翌日の放課後、保健室に行ってみると先生はいなかった。誰もいないガランとした保健室はとても静かで、運動部の掛け声や吹奏楽部の音楽が遠い、別の空間から響くように聞こえてくるだけだ。
もう二度と来ないと一度は思ったし、このまま机にハンカチを置いて去ってしまおうかなと思う。けれど昨日そのハンカチを握ってシたことを思い出すと名残惜しくなってしまって。
先生の机は書類が乱雑に広げられていて汚い。これでは必要なものがどこにあるか分からないのではと心配になる。ハンカチもどこに置いていいのやら。
椅子には先生がいつも着ている白衣が掛かっていた。このポケットにでも入れようか。でも先生のことだからこれもいつ洗ったのかわからないな……そんなこと思いながらも手に取ると、昨日よりも濃厚なバニラの香りが鼻腔をくすぐる。
ぞわりと首の後ろを触られたような鋭い感覚がした。そしてそっと白衣に顔を埋める。
先生の匂い――。
しかし遠く遠く聞こえる喧騒とは違う、ガラリとリアルな音が耳に響いた。そして扉のほうからも先生の匂いが微かに漂ってくる。
振り返れば先生が扉を潜って入ってくるところだった。
「いずも……?」
「先生! あ、違うんです、これは……」
慌てて白衣を元の場所に戻して、歩み寄ってくる先生にハンカチを差し出す。
「ハンカチを、返しにきて……先生はどちらに?」
「たばこ」
ハンカチを受け取り、書類の束の上に置く。それよりも、と白衣を羽織りながら問われた。
「何、してたの……?」
「あ、あの……それ、はっ……」
昨日のことを思い出してました、なんて言えない。昨日のことって何かと聞かれたら、先生でオナニーしましたなんて答えられない。
そんなことを考えるだけでドキドキと心音がうるさくなる。きっと週に何回も抱かれていたのに急にそれがなくなったから、すぐにそんな気分になってしまうんだ。溜まってるんだ。いや射精はしたんだけど。でもきっとそれだけ。
「顔、真っ赤。熱、はかる?」
先生が腰を屈めて前髪の下のおでこに触れる。いつも遠い唇が近い。もうなんだかよくわからないけれど我慢がきかない。
熱はなさそうと傾げる首に腕を絡めて抱きついて、その唇を奪った。タバコくさい。でも嫌じゃない。
身体が熱をもって苦しくて舌を入れようとすると、先生は俺の両肩を掴んで体を引き剥がした。
「いずも」
「せんせい、やです、やめたくないです……」
もう一度口付けようとするが、避けられる。なんで、と焦ってしまう。先生がもっとほしいのに先生はもう俺でムラムラしていないだろうか。
「先生、先生、あの……」
「どうしたの」
「俺も、その……ムラムラします……なんか変な感じで……先生としたい、です……」
頭が、もう脳みそが熱い。恥ずかしいからなのか、欲情に熱で浮かされてるのかはよくわからない。とにかく欲しくて先生の胸に擦り寄って、手でほしいところを探ろうとするが、その前に自分の腹を圧迫する大きいものに気がついてしまう。その硬さが制服越しに腹に当たり、早く触りたくて手を伸ばす。
そこを撫でておねだりしたら、あの人は気まぐれに抱いてくれたから。
「待って……無理」
「え、なんで……」
無理、と完全な拒否の言葉に冷水を頭からかけられた様な衝撃を受ける。そして自分の行動が恥ずかしくていたたまれなくて、瞬時にその場にしゃがみこんで丸くなった。
膝をギュッと抱いて先生を見上げるが、いつも表情の乏しい彼が何を思っているのかなんてわからないし、そもそもほとんど顎しか見えていない。
「せんせぇ……」
拒否された。無理って言われた。
昨日から感情の揺れが激しく、視界が滲んで次の瞬間にはポロポロと涙がこぼれ落ちた。そうだ、最近ずっと涙腺がゆるいんだった。特に先生の前では。
「泣かないで」
先生は一緒にしゃがんでくれた。顔を上げるとハンカチではなく人差し指でそっと、瞼から落ちようとする涙を掬った。そしてこっちに来て、と手を取って一緒に立ち上がらせると、ベッドを囲うカーテンの中へ誘導する。
入った途端、体を引き寄せ抱きしめられた。
しかしすぐ体は離れる。両肩は握られたまま。
「まず……人に見られるとこで、だめ」
「あっ……ごめんなさい」
よく考えたら廊下からも外からも丸見えだった。
「そして……きみは、生徒だから」
それはそうだ。先生は先生なのだから、俺は生徒だ。しかしそれについては反論がある。それならば昨日の先生の発言はやはりセクハラだしアウトだからだ。腹が立って床を睨みながら刺々しい声が出てしまう。
「だって先生があんなこと言うからいけないんです」
「あんなこと」
「抜くって……」
「あぁ……」
なるほど、と言わんばかりに納得したような声を出す。マイペース過ぎて調子が狂う。こっちは昨日から先生に言われたことが頭から離れないのに。
「君が……ハヤトハヤトって、うるさいから……」
ハヤトというのは俺を捨てた男の名前だ。
先生はむくれて顔を顰め、子供みたいな顔をしている。
「嫉妬……ですか」
「そう……かも。わからない。でも、君で抜いたのは、ほんとう」
「先生は俺のことが好きなんですか?」
抜くとか出たとか、そういう話になるからいけない。
先生は優しい。俺が泣いていると事務仕事をする手を止めて、落ち着くまで隣で待っていてくれる。何か言ったりするわけではないけれど、ハンカチを貸してくれて。俺をまっすぐに見つめてくれる。それがもしも好意からくる行動ならばもっと嬉しい。
「君を見てると……」
じっと遠慮なくこちらを見下ろしながら、先生は口を開いた。保健室の中は明るいのに先生が目の前にいると陰って暗い。
「かわいい、て思う。好きな人を……思って、泣いて。一生懸命で。僕にはそういうの、ない。人を好きになる、とかも……よくわからない」
先生の割にはよく喋るなと鼻をすする。でもこれは文脈からしてお断りな気がする。人を好きになることがわからない、か。それで風俗なんですかね。忙しいから手頃な存在をネタにしたわけですか、はいはい。
完全にまた自虐モードに入り始めて目を伏せて顔を逸らした。また傷つくだけならば変なことを聞かなければよかった。自分なんて誰にも特別好かれることはないのに。
「他の男の事を思って、いつまでも泣いてる君に……こう、もやもや……むかむか……と。でもいつもみたいに、めんどくさい……とかじゃなくて」
顔を横に向けたままの俺に先生はちゃんと聞いて、と呼びかける。
「僕のこと……そんなふうに、思ってほしい……僕のことを話して、泣いたり、笑ったり、ほっぺを赤くしたり……してほしい」
話すのが上手くないな。何を言ってるんだか、と思ったが、聞いてるうちにその真意が分かってきて、頬が火照ってくる。素直に照れてしまう。なんてたどたどしい告白。
先生は暫くいつもの半目のままでいたが、突然目をぱっと見開いた。それでも一瞬ですぐにまた半目モードに。
なんなんだ一体と思っていると、先生は眉間に皺を寄せて言うのだ。
「まさか…………これが、恋?」
「自覚なく嫉妬していたんですか」
「うん」
変な人。呆れた人。
へー、ほー、なるほどーってひとりで頷いているけれど、自分で納得するだけではなくこちらにももっと目を向けてほしい。俺のこと好きなんでしょう。
「先生」
目の前の胸板に抱きつこうとしたら、また肩に置いてある手でグイッと体を押し返された。もう一度挑戦するが結果は同じ。
「なんでですか! 酷いじゃないですか」
「だめ」
「俺でムラムラするんじゃないんですか?」
抱きつかせてくれなくてもやれることはある。白衣の下のシャツ越しにお腹から腰のあたりへ腕を絡めて撫で回す。腰からゆっくりと前の方へ手を這わせるときには、お腹より少し下の方へ指先を向けて……誘うためにしていることなのに自分のお腹がきゅんとする。
「俺はムラムラしてるんです……せんせい、なんとかしてください……お願いしますっ……」
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