本当の君がどの君なのか、僕にはわからない。 　神経質で真面目な君も、愛に飢えてる寂しい君も、素直じゃない可愛い君も、どこまでも正しく清らかな君も、母性に溢れた優しい君も、悪魔のようにやらしい君も。 　その一人一人全てを潰して殺していくように君を繰り返し犯したというのに、それでも僕はまだ怖くて君の中に入れない。 　 　最後に出雲が気を失った時、自分も動けなくなってその場に座り込んだ。 　何度か酸欠にしてしまった。今起こさないともう目覚めないかも。ぼんやりとそんなことを思いながら、それでもいいかもしれないと考えた。煮詰めたジャムのような甘い声で“先生”と呼ぶのを聞いたらまた僕はおかしくなる。 　出雲が死んでしまったら僕も死んでしまおう。 　君に出会ってしまった時点で僕はもう死んでしまったようなものだ。出雲に殺されてしまった。今ここにいる僕が何者なのか分からない。 　デスクにあるワインボトルに手を伸ばし、グラスに注がずにそのままボトルに口をつけた。まだ八割ほど入っている七五〇ミリリットルのボトルからとくとくと勢い良く、甘さと渋みと酸味その全てを均等に併せもったアルコールが流し込まれていく。 キャンティ・クラシコはこんな風に飲んでいいワインではないが、そのバランスの良さが心地よく今の気分にはピッタリだった。 　床に落ちたままの出雲の腕が動き、寝返りを打つ。起きてしまったかと暫く見つめていたら、ゆっくりと上半身を起こして座った。 　一瞬目が合うと、黙ったまま微笑む。 　放られたままのTシャツを手繰り寄せて袖を通せば、肩や二の腕についた噛み跡は姿を消す。でも太腿の内側にくっきり浮かんだ赤黒い歯型だけは隠せなかった。 「Tシャツがぐっしょりとしています。今日だけで洗濯機を何回まわしてるでしょうね」 「三回」 「あともう一回まわします？ 明日でも良さそうですが……」 　出雲は何事もなかったかのように話しながら、床に散らばる紙類を片付け始める。汚れたもの、無事だったものに仕分けながら集めていく。 「全部、捨てなよ」 「いえ、綺麗なものは読ませていただこうかと思いまして」 「面白く……ないよ？」 「時間はいくらでもありますから」 　感情の整理がうまくできなくなってから、資料と照らし合わせてまとめ直したいがために出力しただけのものだ。僕が意識的によく観察して理解することはきっと、出雲からしたら無意識に察知できることだ。好きにすればいいけど下らない無意味なものなのに。 　紙類が片付いたら、今度は本を一冊一冊、カバーや折れた箇所を直しながら本棚に収めていく。 「それももう、捨てていい」 「俺が読みます」 「どうして」 「先生のことが知りたいからですよ」 　僕がやりたい放題散らかした部屋を片付けながらそんなことを言う出雲の笑顔は、まるで絵画の聖女たちのように穏やかで慈愛に満ちていた。 　翌朝、出雲が起きる前に起床して、物置部屋にある金庫から彼のスマートフォンを取り出した。先に中身を確認すると昨日連絡を入れたお姉さんから大量にメッセージが届いていた。 　連絡を求めていたり、少し脅迫めいたことを言ったり、帰って来いと言ったかと思えば無理して帰らなくてもいいと言ったり、何が正解の対応か分からず動揺しているのが見てとれた。もう一度連絡をしてみるか出雲と相談して決めよう。 　他にも友人からいくつか連絡が来ていたがそれらは全て削除した。ブロックしてしまうと状況がわからなくなるため受信できるようにしておかなければならないのが煩わしい。 　スマートフォンはポケットに入れて寝室に戻り、眠る出雲の隣でベッドボートを背に座って煙草に火を点ける。 　柔らかい栗毛色の髪を撫でる。規則正しい寝息が耳を気持ち良くさせる。ずっと毎朝がこうやって始まって欲しい。君の存在を感じながらその日を始めたい。一日の終わりには抱きしめて夜を越え、また同じ朝を迎えたい。 　でもきっと、この日々は有限だ。 　出雲を閉じ込めたままでいられるはずがない。でも君がどこか知らないところで他の人間に笑いかけてるのが耐えられない。僕の知らない君が存在するのを抱える日々を送っていたら、自分が何をしでかすのかわからない。今の状況がまさにそれだ。 　それならば完全に見えないように、離れて行ってもらうしかない。 　再び一人になった僕が元に戻るのか、腐っていくのかは検討もつかないけれど。 　こめかみの辺りの毛を撫でていたら、ふと目が開いた。しかし目が開いたまま時間が止まってしまったかのように、動かずただゆったりと瞬きを繰り返す。 　出雲は意外と朝に弱い。時間をかけて覚醒する様子がとても可愛い。昨日は先を越されて見ることができなかったが、本当は毎朝早起きしてでもこの姿が見たい。でも先に起きている出雲に甘えるのも心地良かった。この子といるとほしいものが尽きない。 「せんせい……？」 　小さな子供のようにあやうい発声でやっと名前を呼ばれた。寝ぼけ眼で見上げてくるのが可愛くて堪らず、耳たぶを親指と薬指でこしょこしょした。 「うう……なんですかぁ？ くすぐったい……」 　身動ぎたいのに身体が動かせなくて肩を竦めている。もっと見ていたいけれど手を引っ込めて朝の挨拶を交わした。 「おはよう」 「はい……おはようございます」 　ふわっと笑ったかと思えば、手を伸ばして僕の顎に触れた。 「お髭がないです……」 「出雲が……遊ぶから。先に剃ってきた」 「ええ……残念です」 　微笑んだまま眉だけ下げて名残惜しそうにさわさわしてくる。少しくすぐったい。 　もっとゆっくりと朝を楽しみたいが、とりあえず出雲のスマートファンのロックを解除して差し出した。まだ怠そうにしながらも受け取り、寝転んだまま眩しそうに目を細めて中を確認している。 「お姉さんに、連絡。する？」 「うーん……そうですねぇ……」 　あんまり気の進まなそうな顔をして出雲は枕元にスマートフォンを置いて、布団に潜ってしまった。 「連絡を頻繁にとると説得してきそうな気がします。間隔あけて一方的にちゃんと生きてると報告だけした方が、多くを望まなくなってくるんじゃないですか」 　布団の中からすらすらとそんな悪知恵が聞こえてきて、恐ろしいほど冷静に物事を考えているなと驚いた。昨日電話を入れた時点では相手への気遣いが見られたのにそれをあまり感じない。 「なので、姉が忙しくしてる平日の朝がベストでしょう。明日の確認時にメッセージを入れておきます。今日は既読だけつけておけば十分です」 「そう。見ておきたいものは、ある？」 「ないです。もう仕舞っていただいて大丈夫ですよ」 「淡白だね」 　スマートフォンを拾いながら呟けば、出雲は布団から顔を出して黙って笑って見せた。 　 「先生の健康が心配なのですよ」 　朝からキウイやらりんごやらを剥いて他にも果物とヨーグルトを食卓に並べながら、出雲は真剣な面持ちでそう言った。 「お煙草を吸われますし、朝ごはんいらないと言われましたが寝起きのビタミン摂取はとても大事かと」 　今更少し健康に気遣ったってなぁと内心思ったが、色とりどりで瑞々しい果物たちは純粋に美味しそうだと思った。切って盛っただけなのだろうが、出雲に用意してもらうと今まで働いてなかった食欲が刺激される。 「食べる。おいしそう」 「本当ですか？ 良かった。じゃあちゃんと朝食とるようにしましょう」 「うん」 　僕が朝食を食べるというだけでなぜそんなに嬉しそうにするのだろう。疑問に思うけれど一緒に手をあわせていただきますと言うだけで嬉しくなる自分もいる。 　それにしても久しぶりの朝食だ。僕が朝食をとるのは年に一回、修学旅行に同行するという面倒臭さを極めた行事の時だけである。うちの高校は二年生ではなく三年生の五月に行くのだが、まだ二月なのに思い出してしまったら今から憂鬱になった。 「出雲……修学旅行、楽しかった？」 「なんですか急に」 「朝ごはん……繋がりで」 「もっとなんですか、それ」 　くすくすと楽しそうに笑ったかと思えば、次の瞬間には目を伏せて口元だけで寂しい笑顔を見せた。 「あんまり楽しくなかったですね。疲れました。全然楽しくなかった、て訳じゃないんですけど」 　やや早口で誤魔化すように付け足す。僕の前でまで気を遣わなくていいのに。 「そういえば先生もいらしてましたね。全然姿が見えませんでしたけど」 「僕は何度か、見かけた。君のこと。あれは……疲れるよ」 　普段と変わらず人に囲まれていたのを覚えている。 　他の生徒は本当に出雲をなんだと思っているのかというほど、この子に頼る。道がわからないとか集合時間の確認とか、通りがかれば何かと声をかけられて嫌な顔一つせずにそれに応えていた。自分でやらせればいいものをわからなければ調べるとこまでやってしまう。 　基本的に受験しないことを前提とされているため行事は大いに盛り上がるのだが、文化祭も体育祭も常に走り回ってた。いつ見ても忙しそうな子だなと、生徒会長就任の挨拶の時に感じた違和感を思い出しながら眺めていたのだ。 「あの……たまに思うんですが、先生はこうなる前から俺の事気にしてくれてたんですか？」 「うん？」 「いえ、気のせいだったら恥ずかしいんですけど」 　苦笑いをしながら空になったお皿に向かって、ごちそうさまでしたと出雲は手を合わせた。すぐに食器を下げるために立ち上がろうとするので、座っていてとそれを止めて二人分の食器を片付ける。 　しかし結局出雲はキッチンに来てしまい、二人分のコーヒーを入れ始めた。 「先生、すみません。ありがとうございます」 「別に……食洗機に、入れるだけだから」 「それでもありがたいです」 　コーヒーメーカーがカプセルを潰すプチッとした音を鳴らしたあと、焙煎された豆の香りが辺りを漂う。出雲が取る前にできあがったコーヒーに手を伸ばし、砂糖を入れながら言葉を選ぶ。 「気にしてた……たぶん、ずっと。不思議だった、どうして君を見かけると、観察してしまうのか。普段は話をされている間しか、人を見ないから」 　僕の手元を見ている出雲の頬に触れると、顔を上げてくれた。茶色く色素の薄い瞳に自分が映る。 「こんなに……大きな感情を、抱えてたわけではないけれど。君ははじめから、特別だった」 　触れた頬の体温が僅かに上がるのを感じる。僕の手に一回りほど小さな手が重なって、手のひらに唇を寄せてくれた。 「嬉しいです……俺ももっと先生のこと見ていれば良かった。そうしたら修学旅行も楽しかったですね？」 「無理……君が大部屋で、寝るとか」 「ふふ、そこは体調悪いふりをして先生のお部屋に行くんですよ。ドキドキしません？」 「わるい子」 　むにっと柔らかい肉でできた頬を抓ったら痛いと言いながらも出雲はけらけらと楽しそうに笑って、僕の胸に抱きついた。 「先生の前でだけ悪い子になれるんです。それが嬉しいんです」 「うん。よかった」 　ここにいる間にたっぷり休んで、甘えることを覚えればいい。僕以外の前でも悪い子になれれば……だめだ、考えると阻止したくなる。意志と意思が噛み合わない。