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全ては水の泡④ ※先生視点
「僕の名前……」
「みなわ、さん?」
「そう……僕を産んだことで自分の人生がそうなったから、つけたって言ってた」
「それ、は……先生にそう仰ったんですか?」
出雲の首に顔を埋め、腰をぎゅうっと抱きしめた。出雲に背中をさすられるのを感じながら首を横に振る。
「電話で……誰かに、話してた。台無し、という意味なのに笑って話していてよく分からなかった。でも……」
「でも……?」
「今……人生が水の泡になるような感覚がしてる。そしてこの時間もきっとそうなって、もう何もないのに今度は何になるのだろう」
君がどんなに僕の健康を気遣ったところで意味もない。君が僕の身体を作り替えるのは一ヶ月だけ。
太ももの噛み跡を撫でる。残ったら可哀想だから消えて欲しいけど、もしも残ってくれたらやっぱり嬉しい。
「先生のお母さんはどんな人だったんですか? ハムスターをもらってきたのもお母さんですか?」
「そう。どんな人かは、知らない。こんな顔してる」
「それはお綺麗な人なんでしょうね。離れて暮らしてたんですか?」
「同じ家に、住んでたよ? 家にほとんど、いなかったけど」
背をさする出雲の手が一瞬止まる。しかしまたすぐに優しく撫で始めた。出雲の顎が動く気配がするのに、声が聞こえてこない。顔を見上げたら目が合って、出雲は自分の目から流れていた涙を人差し指でぐいっと拭った。
「お腹がすきました。お昼ご飯にしましょう」
「え……ごはん?」
「はい。昨日ホットケーキミックスを買ってきてもらったでしょう? あれで今日はクレープ生地を作るので先生も手伝ってください。あ、それで夜はお箸を使いますからね」
どいてどいてと僕の身体を押して出雲は先に立ち上がり、僕の手も引いて立ち上がらせた。
なんだかふらふらして背を丸めて出雲の肩に頭をつけてぎゅっとするが、両手で頬をつつんで顔を上げさせられ、頬をつつんだまま親指で少し残っていたらしい涙を拭いてくれた。さらにローテーブルのティッシュをとって鼻までかませてくれた。
「ほら、またキッチンに行きますよ」
「うん……」
そのまま手を繋いで一緒にキッチンに連れていかれた。そして出雲は、そういえばエプロンが欲しいので買ってくださいと甘えてくれた。
出雲が大きなフライパンをレンジ台の下から取り出すのを見ながら、そんなものがうちにあるの知らなかったなぁ、とぼんやりと考えていた。
そして材料を入れたボウルを混ぜてくださいと渡される。
「クレープ……家で、作れるの?」
「今回はホットケーキミックスで手抜きしちゃってますし、焼くのも意外と簡単ですよ。本当は冷蔵庫で生地を寝かせておいた方が破れにくいんですが、大丈夫です! いけます」
何を言ってるのかよく分からないけれどとりあえず頷いた。出雲ができるって言うならできるのだろう。
僕が混ぜ終えたのをささっと軽く出雲も混ぜて、スプーンで掬った生地を熱したフライパンに乗せる。そして腱鞘炎にでもなりそうな動きでフライパンをゆらゆらと回すように振っていくと、薄く均一に生地が広がっていく。
甘い、いい香りがする。出雲は宣言通り菜箸でさっと焼けた生地を破らずにひっくり返した。
「すごい……何を巻くの?」
「お昼なのでレタスとかハムとか巻いて食べましょう」
「甘いのは……?」
「そうですねぇ、じゃあご飯の後に」
話をしながらもまた次の生地を焼いている。いつも出来上がったものを食卓に運んできてくれていたから作っているのは初めて見た。手際が良くて見ていて飽きないなと思いながらも横顔を見てみたら口元を綻ばせて楽しそうにしていた。鼻歌でも歌い出しそうだ。
しかし鼻歌の前に目が合い、出雲は微笑んで焼きあがったクレープを皿に重ねた。
「先生もやってみますか」
「できないと思う、けど……」
「いいですよ、破けてもなんでも。一緒にやると楽しいですから」
場所を交代して、出雲が乗せてくれた生地を伸ばそうとする……が、全然上手くできない。ちょっと大きく振ったら片側に寄るし、慎重にやってみれば全然広がらない……とやっているうちに生地は焼いて固まる。全然丸くない。
「ちょっと片側に寄っちゃいましたね。あ、でもここ。少し厚みができたおかげでここにお箸を入れたら返しやすいと思います」
「ここ?」
「はい! 思い切ってやっちゃいましょう」
応援を受けながら見様見真似でひっくり返してみれば、うまいこと菜ばしに生地が引っかかり、一瞬でひっくり返すことができた。
できたことにビックリして出雲を見てみれば、目を丸くして拍手してくれる。
「先生! 凄いです! ひっくり返すのって難しいんですよ。お上手です」
「うん。でも……均一にするの、難しい。もう一回、やってるとこ見せて?」
「もちろんです。一緒にやりましょう」
出雲に教えてもらいながら、食べきれないくらいほど二人でクレープを焼いてしまった。上手くできることもあるが、綺麗な丸にならなかったり、破れてしまうこともあった。しかし出雲は褒めることしかしないので結果がどうなろうと嬉しくなる。焼きすぎたのも冷凍しておけば今度楽ができるので助かると笑ってくれた。
クレープの具材も用意して二人で食卓に着く頃にはすっかりお腹も空いて悲しい気持ちなど薄れてしまっていた。
「いただきます」
二人で手を合わせて挨拶をする。これでもう何回目だろう。数え切れないほど二人でいただきますと挨拶をしたい。
「先生」
「ん……?」
僕がクレープを焼いている間に作ってくれたコンソメスープに口をつけ、視線をカップに落としたまま出雲は話し始めた。
「先生……卒業式まではとりあえず、ここにおいてくれるんですよね?」
問いかけに対し無言でいる僕を上目遣いに見つめ、首を傾げる。
「それ以降は俺に決定権があるんだと思ってましたが?」
「そう……だったね」
「俺がいなくなる前提でいらっしゃるようにしか見えないんですけど」
「うん」
「本当、意気地無し。ここまでしておいて」
ムスッとした顔をしてクレープにレタスやオニオンスライス、ハムにポテトサラダも入れてくるくるっと綺麗に巻いて渡された。ひと口齧ると甘さと塩気がちょうど良く、ポテトサラダがなめらかでとても美味しかった。
「おいしい」
「そりゃおいしいですよ。ずっと食べたいと思いません? 一生食べさせますよ?」
「うん……」
気のない返事に大袈裟にため息をつきながらも出雲も同じものを食べて美味しいと呟いた。
「まぁそれはそれとして……先生のこと大分わかってきた気がします。お気持ちもわからなくはないのですが、このままじゃ卒業式前に二人とも潰れますよ」
出雲の言ってることは正しくて何も反論の余地などなかった。
まだ二日目でこんなにボロボロになっていては先が思いやられる。まだ興奮状態にあるから仕方ないのだろうとも思うが、気持ちをどこかで切り替えないと貴重な時間が台無しだ。
「本当は……ただ君とずっと、こんな風にご飯を食べたりしたいだけなのだけど」
「それですよ。そうしましょう。俺もナーバスになってました、ごめんなさい」
「ううん……」
「どうなるかは置いておいて……卒業式までは、何も考えずに仲良くしましょう? それまでに先生が俺から離れられないようにします」
こんなに君のことが好きだとわかっているくせによくそんな言葉が言える。それともまだこれより上の感情があるのだろうか? 想像がつかない。
「もう離れられないのに」
「本当ですか? じゃあこんなぬるいことしないで監禁でもすればいいじゃないですか」
「それ。それ、やだ」
また君はすぐにそうやって煽ると思ったのが伝わったらしく、出雲は苦虫でも潰したような顔をして口を噤んだ。
「ごめんなさい」
「ううん」
しばらく二人とも無言でクレープを食べた。僕の食べている生地は綺麗なのでたぶん出雲が焼いたやつ。出雲のは端っこが波模様みたいになっているから僕が焼いたやつ。
一口が小さいしよく噛むので、僕が食べ終わっても出雲はまだ食べている最中だった。僕はただ黙ってじっと、美味しそうに最後の一口を飲み込むところまで見守る。
「先生のこと色々言いますけど、俺もだめだめです。全然だめなんです。情緒不安定だと思いますし、先生の俺への気持ちとか、先生のこと知れば知るほど……」
そこで言い淀み、目を伏せたまま出雲はそっと自分の右手中指の第二関節を甘噛みした。
「興奮しちゃうんです」
そんな扇情的な顔をしてそんなことを言われたら頭を抱えてしまう。額をさすり髪をかきあげ、無性にタバコが吸いたくなった。
「君がいい子なのか悪い子なのか、わからない」
「どちらがご希望ですか」
「どっちも、たまらなく可愛い」
だから余計に困ってしまうのだ。
出雲は視線を逸らし、遠慮がちに口の端を上げて笑い、ほんの少し頬を赤らめた。そして目線を合わせると通常運転の笑顔を見せる。
「まだお食べになりますか」
「甘いの……」
「仕方ないですね。クリーム類がないからバターシュガーに焼き直してきます」
美味しそうでおつまみにもいけそうな響きに立ち上がる出雲を引き留める。
「冷蔵庫のデリリウムもほしい……」
「なんですか? でりりうむ?」
「ピンクの象のラベルのビール」
「もう、だめです。お酒と糖分ばっかとってたらメンタルに響くんですからね」
「知ってる」
怒る出雲について行き、自分でビールをとって栓を開けた。そしてバターシュガークレープの作り方を教えてもらい、僕も出雲用のものを作った。
料理なんかしようとも思わなかったのに出雲に教えてもらうとこんなに楽しい。このペースでいけば一ヶ月後には僕は全然違う人間になっているのかも。そうなってたらいいと思いながら、二人で一緒にデザートを食べた。
君が作ってくれた口に広がるバターの香りを、昔から好んでいるフルーティーなビールで流し込む。それは一人でいた時の幸せな時間に君が更なる至福を与えてくれているかのようだった。
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