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第1話 組織の囚われ人

珈琲の匂いが鼻を掠める。重い瞼を持ちあげて寝ぼけ眼で辺りを見渡し、黒の存在を捉えた。ガチャガチャと金属音が聞こえる。目をこらすと銃の手入れをしている黒の背中が見えた。髪は昨晩と違い束ねられている。 「‥今、何時…」 「起きたか…今、午前6時だ」 聞いた時間は思ったよりも早かった。この時季は日の出が早く6時でも外は十分明るかった。こちらを振り向いた黒に何か差し出される。徐に両手で受け取りカップを覗くと香り高い珈琲だった。 「それでも飲んで呆けた顔を何とかしろ」 「これ…あんたが淹れたのか」 「そうだ」  黒は短く答えるとこちらに背を向けて銃の手入れを再開した。俺はその背中を見つめながら上体を起こし、珈琲に口をつける。口内に広がるほのかな苦みで目がシャキッとした。  今は昨晩感じた怠さや痛みはなく、体の疲れもない。無理やり飲まされた滋養強壮剤が効いたみたいだ。悔しいけど感謝せざる得ない。 「あんたは何時に起きたんだ」 「4時には起きている。貴様のように何日も寝たりしない」 「あんな目に遭わせた人に言われたくない」  部下に命令した張本人に言われたくない。薬のせいとは言え乱れてしまったことが今更ながら恥ずかしくなる。 「報告は受けている。随分乱れたようだな」 「薬のせいだ!望んだわけじゃない」 「だが自分から犯せと言ったんだろ」  傲然とした態度で言われて腹が立ち、大きな声を出してしまった。薬を盛られれば誰でもあんな風になってしまうだろう。乱れさせたくて飲ませたくせによく言えたものだ。 「あんたのせいで俺は‥こんな風になってしまった」 「ふん、下らんな。あの威勢の良さはどうした」 「‥これ以上何もされたくない!殺すなら殺せば良いだろ」  ベッドから飛び起きて黒から距離を置く。珈琲カップが手から滑り落ち、床で激しく割れた。絨毯に珈琲がシミを作る。 「実にくだらん。貴様は何か目的があって危険を顧みず店に来たんじゃないのか」 「何か知ってるのか」 「どうだろうな」  はぐらかしても何か情報を持っていることは分かる。妹の居場所も知っているかもしれない。それを分かった上で俺を拘束したのだろうか。そう思うとこの男の掌で踊らされている自分に腹立たしくなる。 「それでもまだ殺せと戯言を言うのか」 「‥知ってる事があるなら教えろ!」  思わず黒に摑みかかった。鋭い視線で睨まれ銃を首に突きつけられる。このまま喉を撃たれれば、ひとたまりもないだろう。 「口の利き方には注意しろ。貴様ごとき殺すなど造作もない」 「分かった。‥知ってる事を‥教えて、下さい」 悔しいがこの男の言う通りだ。俺の態度は人に物を頼むものではなかった。ここで黒を怒らせても良いことはない。上手く取り入って情報を聞き出せば、妹の居場所を掴めるかもしれない。ついでにこの組織の膿でも出せれば尚良しだ。 「ただで教えてやる義理はない。貴様は私の気まぐれで生かされていると自覚しろ」 「‥払える金は今はない。あるとすればこの体と銃の腕くらいだ」 「ふん、ならば貴様の全てを捧げろ」  体はいくら奪われても構わない。だが心だけは渡せない。どうしてもやり遂げなければならない事があるからだ。 「…分かった。あんたに全てを捧げる」 「貴様にしては懸命な判断だな。今から私を|首領《ボス》と呼び、全てを捧げて従え」 「‥わかった。首領」  従順な振りをして必要な情報を聞き出した後、この男を始末しよう。そして妹を必ず見つけ出す。 たった一人で組織全体を敵に回しても勝算がないことは百も承知だ。それでも止まることはできない。 「動けるなら貴様は風呂に入れ。他の者の匂いがする」  捕まって以来、風呂に入ってない。あんなことさせておいて他人の匂いがするとよく言えたものだ。 「…了解だ、首領」  ベッドから降り扉を開いて風呂場に向かう。一人で使うには十分な広さの脱衣所でボロボロの服を脱ぐ。あの日乱雑に脱がされた服はあちこちが破れたままだ。  浴室に入ると床は黒いタイル調で壁は白いタイルで覆われている。丸い大きな浴槽は大理石であしらわれているようだ。 固形石鹸をつけたスポンジで体を洗うと爽やかな匂いが立ち込める。棚に並んでいるものは黒も使用しているものだろう。つまり同じ匂いになるということだ。気にくわないが仕方がないので、無心で頭の先から足先まで全て綺麗にした。 丸い大理石の湯船に浸かる。久しぶりの風呂は気持ちがいい。張り詰めていた気持ちが少し綻ぶ。このままここで眠ってしまいそうなくらいリラックスできる環境だ。 「ふ‥あの男何を考えているんだ‥」  そんなことを言いながら湯船に浸かる。恐らく誰も思いつかないようなことを企てているに違いない。常に先を読んでいるのだろう。  しばらくして風呂から上がり、乾いたタオルで体を拭く。扉を開けで浴室から出ると脱衣所に綺麗なバスローブが置かれていた。誰が用意したのか分からないままバスローブを身に纏う。 脱衣所から部屋に戻ると黒がスーツ姿でソファに腰掛け、珈琲を啜っていた。 「こっちへ来い。飯が出来てる」 「これはあんたが?」 「部下に用意させた。貴様の服もな」 「感謝はしない。あんたのせいであんな目に遭ったことを俺は忘れてないからな」 勝手に攫い翻弄し無茶苦茶にした相手を信じることもできないし、感謝もしない。無償で提供された食事はどれも美味しかったが、それでも有難うなどと素直に言えなかった。 「お前が勝手にテリトリーを犯して来た。それを相応の対応で返しただけだ」 「あんたらが合法的に稼いでいれば、店に行くことも無かった。あの店はキナ臭いだろ」  街自体が無法地帯なのは分かっていたが、その中心的人物が黒璃秦ではないかという者もいる。だが確たる証拠はない為、追い詰めることはできなかった。水面下で何らかの力が働いているのはわかる。尻尾を掴ませない巧妙な手口でかいくぐって行く。どこまでも止まらず進んでいく。そんな男に全てを捧げる者はたくさんいるのだろう。  脅された者、尊敬して憧れて自ら組織に属した者、様々だろうがやっていることは変わらない。 犯罪者にはいつか必ず罰が下る。世の中そんなに甘くはない。そうでなければ被害者は前を向いて生きていくことは出来ないから。

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