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Decades later ー 菫

かきつばたがこの世を去り、1ヶ月が経つ。 煩かったあいつが居なくなってしまえば 起きる時間も食事の時間も眠る時間も、 全てが崩れた。 入院していても電話を鳴らしてくれて 一時的に退院出来た時には無理をして動いてくれたから。 学生の頃からかきつばたのお陰で人並みの生活が出来ていた俺は、何も出来なくなってしまった。 かきつばたの居ない世界は慣れない。 いつかそれに慣れてしまうのも怖い。 子供を設けられないこの身体を、かきつばたは生涯愛し続けてくれた。 俺もそれに応えるよう、かきつばたを愛した。 今も、その温もりは1ミリたりとも忘れていない。 俺は毎日かきつばたの墓に花を供えに行った。 あいつは綺麗好きだったから、少しでも墓石が汚れないように。 少しでも雑草が生えてしまわないように。 そんなある日、いつものように墓参りへ行けば かきつばたの墓の隣に座る男がいた。 まるでこの世の者とは思えないほど容姿端麗、 高そうな黒のタキシードを羽織るその姿は まるで出会った頃のあいつのようで。 黒髪に長身。 この類の奴らは何故こうも夜の街の匂いを漂わせるのか。 構わず足を進めれば、俺に気が付いたらしい男が振り返る。 「…もしかして、かきつばたのお仲間さんですか?」 「……篠原菫。」 「フルネームか。」 生前のかきつばたとその男とでは、かなりの年齢差があるように見えるが、 きっとそれは人の常識なのであって、 こいつらの常識とは違うんだろう。 「今となっては人に堕ちた身。 堕落仲間とでも言っておこうか。」 また随分とお堅いな。 かきつばたとはえらい違いだ。 「人か人じゃないか…ってそんなに重要ですか。」 そう思えるようになったのは、 紛れもなくかきつばたのお陰だ。 その身をもって俺に教えてくれた、ここで眠る最愛の人。 「…杜若を導く事が、私の最後の仕事だったよ。 逝く間際、楽しかったと言っていた。 私にはまだわからないが、 いつか私にもそう思える日が来るだろうか。」 遠くを見つめていたその人は 静かに立ち上がると、俺に深く頭を下げた。 「どうしようもなかったあの男を、沢山愛してくれてありがとう。世話をかけただろう。 …あれを失った傷はまだ癒えないだろうが、 どうか君も残りの人生を精一杯生きてくれ。」 俺だって、そこまで鈍いわけではない。 だからきっと勘違いではないだろう。 この人は多分、俺よりもずっと昔から、 俺なんか生まれてもない頃から、かきつばたを──。 俺の隣を通り過ぎる瞬間、 微かにバラの香りを漂わせた男の袖を掴んで引き止めた。 「…貴方は何と呼ばれていましたか?」 「……紅薔薇だ。」 「紅薔薇さんか。 …はは。やっぱり花の名前なんですね。」 紅薔薇さんの黒い瞳が揺れる。 今までずっと生きてきた世界から 突然追放される苦しさは一体どれ程のものなんだろう。 俺には分からない。 わからない、けど。 「よかったら、また会いませんか? 今度はお茶でも飲みながら、俺が出会う前のかきつばたの話…聞かせてください。」 この世界で独りの紅薔薇さんを 恐らくかきつばたをずっと傍で見守っていたであろう紅薔薇さんを 放っておく事は俺には出来ない。 互いの愛する人の話をして そうやって少しずつ傷を癒して 俺も紅薔薇さんも少しずつ、前に進んでいけたらいいって。 「…そうだな。君の作ったパンケーキとやらを、私もいただいてみたい。」 一瞬だけ微笑んだ紅薔薇さんは、 やはりこの世の者とは思えない美しさを帯びていた。 帰り道、小さな花屋に立ち寄った。 「カキツバタと、菫…それから赤い薔薇で花束を作って貰えますか? 家に、少し飾りたくて。」 *菫の花言葉 : 無邪気な恋、貞節 [完]

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