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明日、春が来る
高校生のふたりがホテルを出て行ってしまうと、一気にその中はがらんとしたように思える。二人が出て行ってしまってから一禾は朝食の片付けをし、染は新聞の経済欄の続きを読み、そんな二人を夏衣は眺めて一人で悦っていた。いつもの、当たり前すぎる光景だった。
「・・・がっこう・・・行きたく無いなぁ・・・」
「染ちゃん!」
「・・・分かってるよー・・・分かってるけど・・・」
「これ流したら行くからね、準備しといてよ」
「・・・いちかぁ・・・」
「一禾は染ちゃんにだけ優しいけど厳しいね」
「ナーツー・・・」
「おお、よしよし、染ちゃん!俺が優しくしてあげる!」
「・・・ナツ!染ちゃんも!ホラ、行くよ!学校!」
「あーあー・・・一禾のオニィ・・・!」
「頑張って、染ちゃん!」
染が学校に行きたくないのは理由がある。一禾は勿論、それは承知している。しかし、優しくしてあげるだけでは染のためにならないこともちゃんと分かっている。一禾はそういうところが抜け目無く容赦ない。染もそれは分かっているからはっきり抵抗したりはしない。
ホテルの裏に回るとそこには駐車場が在る。しかし、京義と紅夜は車など持って居ない。そこに止まっているのは一禾と染と夏衣のものだが、三人にしてはやけに数が多い。一禾は去年の誕生日に女の子に貰った黒のメルセデスに乗り込んで、染はその助手席に座る。
「染ちゃん」
「・・・なに」
「行くよ、覚悟はいいね」
「・・・お、おう・・・!」
少々大袈裟のような気もするけれど、そうも言っていられない。
「はぁ・・・」
染はまた溜め息を吐いた。大学が見えてくる。皆にとっては青春を謳歌する輝かしい舞台かもしれないが、染にとっては遊園地によくある恐怖の館でしかない。染は大きく息を吸って、吐き出した。一禾がいつもの場所に車を止める。そろりそろりと車を出て、外の様子を伺う。植木を挟んで向こう側の道路には、スクールバスを降りた団体が歩いている。それを見るだけでもう鳥肌もの。
「うわぁ・・・」
「染ちゃん」
隣で心配そうにしている大親友の腕を掴む。毎日こうだけれど、一禾はそれに毎日付き合っている。染にとってはこの場所で一番信用を置いている一禾が側に居てくれるということで、どれだけ救われたか知れない。それは一禾にも分からないこと。きっと染だけがそれを知っている。
出てきた腕の鳥肌を撫でて、染はゆっくり歩き出した。そう、構内はゆっくり歩くに限る。オーナー夏衣の計らいで、ホテルの住人は皆男、それもどこかでモデルやっていても良いような良い男揃いだが、染はその中でも完全に群を抜いて、男前だった。どこからどう見ても、染の容姿は非の打ち所も無く完璧の一言だったが、染にはそれ以上に性格、いや体質に問題があった。
「おはよー、そめ!」
ポン、と軽快に後ろから女の子に肩でも叩かれた日には。
「う、・・・う・・・うわぁっぁっぁっぁぁあ!」
「・・・え・・・?」
「染ちゃん!」
絶叫し、その場を走り去ってしまうほど。そう、染は昔のある事を切欠に、今の今まで異性恐怖症という病気に悩まされていた。近づかれただけで鳥肌がたち、目からは涙が止まらなくなる。触られでもしたらそれでは収まらない。どこだろうが奇妙な大声を出し、染自身の意思とは関係なくその場から遠ざかってしまう。勿論、全身鳥肌、涙と鼻水は止まらない。
「う・・・うう・・・朝イチは駄目だって・・・」
「大丈夫、大丈夫。俺が居るからね」
「うう・・・いちかぁ・・・」
それも少しすると収まるのだが、染のその容姿のせいもあって、声をかけてくる女の子は少なくない。染は涙を手で擦りながら、一限が始まろうとしている講堂の中に入った。染は経済学部で、学部の中に女の子が少ないことだけが救いだった。皆にとってここは勉強よりも、恋する場所なのかもしれない。しかし、染にとってここは戦場でしかないのだ。
「おーい、そめ!いちか!」
「・・・あ・・・」
「何だ、お前もう涙目じゃん!」
「あ、・・・朝一でぇ・・・!」
染は友達のキヨの隣に座ると、常備しているティッシュを取り出し目尻を押さえた。染は構内に居る間、基本的に男友達の側を離れないようにしている。友達と一緒に居ると、声を掛けてくる女の子は心持減るからだ。そんなものは気休めだ、とキヨのほうは常々思っているのだが。
「それじゃ、キヨ。染ちゃん頼むよ」
「おー」
「うう・・・いちか・・・」
「染ちゃん大丈夫。昼になったらまた会えるからね」
一禾だけ、学部が違うために受ける講義も基本的には違う。一禾は法学部だったが、法学部の男女比はほぼ半々である。染は高校時代、どっちの学部を受けるか真剣に何日も悩んだ記憶があった。一禾がひらひらと手を振って、染はそれを涙目で追う。染の居なくなった一禾の周りには、既に女の子の人だかり。
「・・・染も凄いけど。一禾もすげぇよな・・・」
「・・・あんなのに囲まれて・・・ほんっと一禾って・・・」
普通は喜ばしいことなのだろうけれど。キヨは隣でまだ目に涙を浮かべている友人を見て、溜め息を吐いた。天は二物を与えないのか、だとしたら神様は余りにも殺生だろう。
「もうホント女という女・・・死んだらいいのに・・・!」
「それは困るなー」
「なんだよ、キヨ!俺と女どもどっちが大事なんだよ!」
「それよりもまず鼻水を拭け」
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