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もしかしてそう Ⅵ

「・・・お前の事情なんて知らない」 「・・・」 「・・・俺は契約で居るんだ、好きとか、如何とかそういう問題で居るんじゃない」 「・・・契約・・・?」 特別教室ばかり並べられた5階は人の気配がない。京義は全くの無表情でそう言った。眉の一つも動かさないで、悲しい顔をしないで。 「・・・夏衣に何言われたのか知らないけど、もう余計なことするな」 余計なこと。余計なこととは一体何だったのだろう。紅夜は不思議だった。自分と年の変わらない、京義が不思議だった。何も聞いてはいないようで、大事なことはちゃんと知っている。京義は紅夜が思うよりも、ずっと達観した人間だった。それが哀しくて、同時に怖かった。 「ナツさんは仲ようしたげてって・・・」 「・・・あぁそう」 「・・・」 「そう言われたから仲良くするなんて・・・お前ホントに頭良いわけ?」 「・・・い、言われたから仲ようするんやない!」 「・・・じゃぁ何で」 「俺が仲良くしたいからするんや」 「・・・」 そういう京義のその背中を、紅夜は見たことがあるような気がした。そうやってずっとずっと、遠ざけて暮らしていた。笑っていれさえすれば良いと思っていたし、その土地に馴染む必要なんか感じていなかった。そういう疎外感を多分誰より、紅夜は知っていた。 「俺かてずーっとそうやった・・・」 「仲ようしたげてなんて言われたって・・・誰も仲ようなんてしてくれへんの、ホントは分かってたんやもん」 それでは駄目だと、そうではないと、誰も言ってはくれなかった。誰も紅夜のことなんか、気に止めてくれる人はいなかったから。そうやって遠ざけられる前に遠ざけながら暮らしてきた。京義もそういう寂しい境遇の中にいるのかもしれない。寂しいかどうかは、京義が決めることだろうけれど。 「・・・やから・・・ナツさんに言われたとき・・・俺は絶対京義と仲良うしょうと思ったんや」 「や、でも別に!言われたからするんやないで!これはちゃんと俺の意思!」 はいと笑って、それで見返りなんて求めてない。だけど伸ばした手を誰も掴んではくれなかった。本当は誰も、仲良くするつもりなんてなかった。そのひとつも。紅夜は、頭は良いが人の心の機微には酷く疎かった。だからいつだって待っていた。仲良くされるその時を、きっと次は仲良くしてもらえる。ずっとずっと、伸ばした手を拒絶されるまで、そう思っていた。 「・・・お前、名前は?」 「・・・は・・・?」 「名前」 「・・・あ、あいはら・・・こうや・・・」 「ふーん・・・相原」 「は、はい!」 「・・・帰るぞ」 京義は何も喋らない。必要なこと以上は何も言わない。音楽室から出て行く、八頭身の彼はそれでも少し、紅夜と仲良くしようとしているのかもしれない。それは京義なりの譲歩だったのかもしれない。 (・・・始めて会ったとき・・・名乗ったんやけどな・・・?) これから先、京義が手を伸ばすことがあったら、もしも自分に手を伸ばすことがあったら、その時はその手をちゃんと握ってあげよう、紅夜はそう思っていた。ずっと握って欲しいと思っていた。仲間に入れてくれるものだと思っていた。拒絶される悲しみを、紅夜はちゃんと知っている。だから、京義の手は握ってあげる。絶対に離さないように、ぎゅっと。いつかもしも、そんな日が来るとしたら。 夜は12時を回っていた。夏衣の部屋は一階奥にある。談話室の向かいだ。夏衣の部屋は他の部屋よりも随分と広い。オーナーの特権である。夏衣は書斎でパソコンを叩いていた。「家」に送る文章を考えていたのだ。ずれた黒縁の眼鏡を引き上げて、夏衣はパソコンを叩く。すると不意にインターフォンが控えめに鳴った。夏衣はパソコンをそのままに、立ち上がって扉を開いた。 「いらっしゃい」 「・・・」 そこには京義が立っていた。京義は無言で夏衣のことを少し睨むと、靴を脱ぎ部屋の中に入っていった。夏衣は扉を閉めて、京義の後を追って部屋の中に入った。京義は部屋をすたすたと横切り、夏衣のベッドの上に転がった。夏衣はキッチンに入ると、上の戸棚を開けてインスタントコーヒーを出した。夏衣はコーヒーが好きだったが、豆を買うほどではなく、この安い匂いのするコーヒーが好きだった。 「コーヒー飲む?」 「・・・」 「・・・機嫌悪いねぇ、何か怒ってるの?」 京義の無言は否定、と受け取って夏衣は自分の分のコーヒーだけを用意した。普段、キッチンはこういう用途でしかない。料理全般は一禾がやってくれる。そのせいで誰のどのキッチンも全く汚れはなく綺麗だった。安い匂いのするコーヒーを夏衣は一口飲み、無言の京義を見やった。 「・・・京義」 「御託はいい、早くしようぜ」 「・・・」 湯気の立つコーヒーをキッチンに置いて、夏衣は眼鏡をもう一度引き上げた。京義の肩を掴みこちらを向かせる。いつものように京義は無表情である。別に怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだ。夏衣は京義の長い前髪を上げてそこに唇で触れた。そういう優しさみたいなものを京義は嫌う。それは分かっていた。 「可愛いね、京義は」 「思ってることが、丸分かりだ」 京義は学校の制服のままだった。夏衣はシャツのボタンをゆっくり外しながら、今度は頬にキスした。京義の眉間に皺がよる。 「・・・あいつ・・・何で呼んだの」 「ん?紅夜くんのこと?」 「そう、他に誰がいんだよ・・・」 「・・・何でって、ねぇ?」 夏衣が微笑む。京義は更に眉間の皺を深くした。京義の喜怒哀楽は酷く乏しいが、多分これは怒っている。はっきりした答えが欲しいのか。夏衣は考えながら、京義の白い肌を撫でる。すると京義が突然、がばりと体を起こして、夏衣吃驚して思わず手を引っ込めた。 「・・・あいつもこうやって手篭めにすんの?」 「・・・ふーん・・・」 「・・・なんだよ」 「妬いてるんだ?可愛い」 京義は夏衣の返答にげんなりしたが、夏衣にそれが分かったとは思えない。今度は唇を塞いで、もう一度ベッドに倒される。そうして今度こそ、長い夜が始まる。 『契約』 京義はそれを、こう呼んでいる。

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