12 / 275

魔法が解けたら

昔から弾かされていた。京義はどうもその前に座らされると、弾かされている気がしてならない。後ろで誰かが拍を取り、うんちくをたれながら、京義の指が狂うのを待っている。何だかそれがいつも悔しくて、勉強をしていない時はピアノばかり弾いていたような気がする。少しでも指が傷つけばいいのに、と思っていた。バレーの練習をして内出血の跡が残るように、野球のバットを握って肉刺が潰れるように。これだけ練習したんだ、という確証のようなものをいつも欲しいと思っていた。痙攣を起こした指を見て、京義が笑ったのがそういう理由だったなんて、その時の誰が思っただろう。つまりいつだって理解されていなかった。誰も理解しようとなんてしてくれなかったし、そんな干渉無意味だと思っていた。 「・・・あの」 「・・・」 5階の第4音楽室は随分前から使われていない。京義はそれを知ってから、特に鍵が掛かっているわけではないその教室に、良く訪れるようになった。始めは寝る場所に使っていたが、ほこりを被ったままのグランドピアノをほぼ毎日見ていると、何だか昔を思い出して、次の日にはピアノを掃除していた。何年放って置かれたのか知らないが、ピアノはちゃんと綺麗な音を出した。京義は音楽室に来ては眠ったり、勉強をしたりしていた。そうして気が向いた時は気が向いただけ、ピアノを鳴らした。 鳴らせば昔を思い出したが、ここには拍を取る人もいなければ、和音が狂っても罵声が飛んでくることもない。ピアノを弾いていれば無心になれた。何も考えなくて良かった。京義は目を瞑って、ただ鍵盤を順番通りに叩くことだけに集中していた。そうすれば、いつだって気分が良かった。何だって許されそうな気がしたし、許せそうな気もした。昔はあんなに自棄になっていたのに、環境が変われば何でも変わるものだ。 「・・・?」 「・・・」 その日、誰かとも知らない生徒から声を掛けられた。京義は弾いていた指を止めて、ちらりと視線を向けた。男はびくりと一歩後退する。声を掛けておいてその反応はどうだろうか。もしかしたら生徒会の人間かな、京義が始めて考えたのはそのことだった。ここは空き教室だが、勝手に使うのは頂けない、と言いに来たのだろうか。これだけ派手にピアノを弾いていれば、流石にそうかもしれない。京義は大体ピアノを弾くのは放課後に決めていた。放課後なら特にピアノの音がしていても目立つことはないと思って。 「・・・なに」 「・・・え、と・・・」 「・・・誰、生徒会?」 「・・・お前・・・」 「・・・?」 「覚えてねぇのか!失礼な奴だな!」 「・・・?」 「俺、宮間嵐!紅夜の友達だ!」 「・・・」 そう言われても。京義は覚えがなく、首を捻ることしか出来ない。戸口に立っていた嵐は、そんな京義の反応が気に入らない様子である。 「この間昼に会っただろうが!」 「・・・何か用?」 覚えがないものは仕方ない。京義はピアノに向き合って、途中からやり直した。指慣らしのために弾いていた簡単な曲だったので、そこまで集中しなくても勝手に指は動く。嵐はそんな様子の京義に面食らっていた。京義は自分がどう見られていようが、どう思われていようが、そんなことはどっちでも良かった。他人の評価ばかり気にしているほうが、可笑しいと思っていた。だから自分にプラスになるようなことや好きなことはしたし、その逆のことはしなかった。他人の評価ばかり仰いで一体何が楽しいのだろう。京義に言わせて見れば、皆と同じような格好をしている他の生徒のほうが、よっぽど怖かった。それは自分のアイデンティティを失うということだ。 「よ・・・用・・・って」 「・・・?」 「・・・こ、うやが謝って来いって・・・」 「・・・別に良いよ」 「・・・へ」 「誰かに言われてすることなんて、意味無いだろ」 嵐はびくりともう一度体を硬直させた。なるほど、確かにそれはそうだった。嵐にとっては、それは言い訳に違いなかったが、京義がいい気がしないのも分かる。 「いや、と、兎に角!無茶苦茶言って悪かった!」 「・・・」 不意に京義が嵐のほうに視線をやった。その目は赤い。体が意思とは関係なく硬直する。京義は無表情のままだった。顔をこちらに向けているが、指は正確に黒白を順番に、その動きはまるで何かを撫でるようだ。カーテンの無いその教室は、無くても分かる、風が随分酷い。 「・・・こちらこそ」 京義はそう言って、鍵盤に目を戻した。嵐はぽかんとしている。京義は目を瞑って、佳境になった曲を無心で弾いている。嵐はそれを暫く見ていた。紅夜が言っていたそのことが、少しだけ分かったような気がした。こんな風に穏やかな表情で、こんな風に音を鳴らす人が、何か悪いことをしているとは思えない。太陽の光が髪に透ける。そうしてそれは随分と眩しい。 (・・・マジだ・・・) そういう時の京義の横顔は、驚くほど精巧で、それ以上の言葉なんて必要ないくらい、ただ美しい。

ともだちにシェアしよう!