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ナイフとフォーク Ⅳ
その日、一禾が目を覚ますと、天井が随分高く、白く見えた。ぼんやりしたまま体を起こすと、ブラインドが少し開いているのに気が付いた。その奥に町並みが広がっている。一禾はベッドから降りて、ブラインドに指を挟んで少し広げ、そこから見える僅かな景色を見ていた。「プラチナ」から見る景色とは随分違う。
「一禾」
呼ばれて、振り向く。彼女は大学教授の娘さん。良いところのお嬢様だ。一禾は基本的に、相手にする人種を選別する。そういうところ、自分でもドライだなと思うけれど、後々問題にならなくて、何でもしてくれる人が良かった。そして世の中には案外、そういう都合の良い人間が居るもので。
「遅かったわね」
「御免ね、疲れてたみたい」
「良いわよ。シャワー浴びてきたら?」
「うん、そうする」
髪を撫でた彼女にただ笑って、一禾は一人で住むには大きすぎるマンションを横切り、サウナが付いている浴室に続く扉を開けた。鏡に映る一禾は、完璧な姿をしている。痩せ型といえば痩せ型なのかもしれない。でも一禾の細くて白い腕は、誰かを守るために在るわけではない。一禾は鏡の中の自分に、桜色の唇を歪めて笑みを作ってみた。今日も完璧に笑えている。
叔父さんに頼んで持って来て貰っちゃった、と彼女は嬉しそうに微笑む。レストランで出されるような何が乗っているのか全く不明なパスタを前に、一禾は頭を拭いた。自分で料理しなくても、ここでは黙っているだけで料理が出てくる。そういえば彼女の叔父さんはレストラン経営者だった。
「でも私、一禾が作るのも凄く好き」
「・・・ありがとう、嬉しいこと言ってくれるね」
「ホントよ?また作ってくれる?」
「うん。いつでも玲子さんの良い時に」
持つと少し重い、銀のフォークを玲子は華奢な指で上手く掴んで、器用にパスタを食べる。その姿は全く乱れのない、とても美しいものだった。指に光るのは婚約者に貰った、桁外れの値段の指輪。それがきらりきらりと光って眩しい。そう、こういう人が良い。決して自分に真っ直ぐにならないで、暇を持て余していて、優しくしてくれる人が。ここは現実とはかけ離れている。一禾は部屋に頼りなくかかっている時計を見上げた。それでもここは外界と同じように時間が過ぎているのだと思ったら、何だか不思議だ。
「ねぇ、一禾」
「ん?」
「今回はどのくらい居られるの?」
「・・・俺はいつだって玲子さんが望むだけ居るよ」
「嘘ばっかり。この間もそう言っていたわ」
「この間はカレが帰ってきたんじゃないか」
一禾が笑いながら言うと、玲子は少し膨れてみせた。この間一禾がここを訪れたとき、海外に働きに行っている玲子の婚約者が突然帰ってきたのである。一禾は遭遇しなかったのだが、そのまま帰る運びとなって、それから暫くである。勿論、一禾はその抜けた時間を別の女の子の家で過ごしていたが、そこを咎める玲子ではない。二人の関係は密でありながら、常に離れたものであった。
「ホント、ちゃんと連絡してくれなきゃねー・・・」
「結婚はいつになるの?」
「さぁ?向こうが決めるから私の意思は尊重されないわ」
「俺は呼んでくれる?」
「来てどうするつもりなの」
「別に。見たいだけだよ、玲子さんの夫になる人を」
「特に興味も無いくせに」
「うそ、あるよ」
玲子は完全に、教育を受けた人間だ。上からの圧力によって、教育された完璧な人間。一禾はそんな彼女が羨ましくもあった。そういう完全さは人工的で、どうも皹が入っているものだ。玲子にだって皹はあるだろう。それが自分とのこの、冷めた関係だ。一禾は如何やってみせても、玲子や玲子の婚約者のようにはなれない。これが、畑が違う、ということなのだろう。
「全然冴えない人間よ、きっとがっかりするわ」
「そうなの?」
「そう、一禾みたいじゃないのよ」
「・・・ふーん」
いつだって羨望していた。そんな風になりたいと、ずっと思っていた。思っている限り、そんな風になれないことだって分かっていたけれど。完璧であればあるほど、全てが約束されるような世界は、一禾にとってはショーウインドウの中の玩具のようだった。届きそうで決して届かない。そこに並べられた玩具は、手に取ることを許されないからこそ、美しくディスプレイされている。
「ますます興味あるね」
「えー怖いよ、一禾」
「別にぶっ潰したりしないよ、結婚式」
「そうなの?」
「そう、俺はいつだって玲子さんの幸せを切に願っているよ」
「・・・そう?」
言葉は薄っぺらく、上滑りしていく。笑顔は冷たく固まり、そのまま動かない。だけど、それでも楽極まりなかった。パスタを食べ終わった玲子が席を立って、自分の皿と一禾の皿を下げる。しかし、彼女は自らの手でそれを洗ったりはしない。絶対に。
「さて、一禾どうする?」
「仰せのままに致しますよ」
「もう、ふざけないで!」
「はは、どこか行こうか?」
「大丈夫なの?」
「俺は平気、玲子さんは?」
「私も」
「突然帰ってきて、殴られたりしないよね」
「させないわ」
一禾は茶化してそう言ったが、彼女のほうは半分本気ぐらいの言葉の加減だった。一禾の顔を両手で包んで、額に触れるだけキス。一禾は目を瞑った。彼女の胸に光るそのダイヤはきっと本物だ。そうしてあれ一つで、一禾のメルセデスぐらいは購入できるくらいのお値段だ。
「一禾の美しい顔に傷ひとつ付けさせたりしないわ」
「・・・それはそれは」
「貴方は私の大切なものの一つなんですもの」
彼女はそういう形で一禾を愛している。この愛に嘘は無いが、それは一人の人間への愛ではなかった。けれど、彼女のそういう形の愛が、一禾には丁度良かった。等身大で真っ直ぐに愛されることぐらい、面倒なことはないから。大事にされれば嬉しいし、笑って見せようと思う。これは頑張りではない。
「玲子さん、俺はものじゃないよ」
「分かっているわ」
だけど、物に程近い。そうしてその境界線は、酷く薄い色をしている。
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