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ナイフとフォーク Ⅵ
誰かがいつも助けてくれるなんて、そんなこと思ったことなんて一度も無かった。
『帰るね、玲子さん』
「・・・」
テーブルの上に置かれた一枚の紙を見ながら、玲子は溜め息を吐いた。電話が鳴る。取ろうか、取るまいか。一禾ではない。玲子はソファーに寝転がった。電話が鳴っている。遠くで鳴っている。玲子を呼んでいる。如何でも良かった。目を瞑って耳を塞いで、ただ一禾のことを考えていたいのに。
「・・・」
いつも居なくなってしまう人だったから、側に置いていられたのかもしれない。どこかに変える場所とそこで待つ人を持っている人だったから、全てを投げ出して甘えられたのかもしれない。玲子はゆっくり立ち上がった。電話はまだ鳴っている。受話器を取ると、音が消えた。
「もしもし?」
元の世界に戻っただけだ。
「あーでもない、こーでもないって煩いよ!染ちゃん!」
「ナツが変なもの入れるからだろ!」
「染さんやってハヤシライスのルー入れたやん!」
先刻からこの調子である。図体のでかい男ばかりキッチンに並んで、一時間ぐつぐつと何かが煮える鍋を見つめる。京義は溜め息を吐いて、別の眠れる場所を探して立ち上がった。その間でもまだ後ろでは、お玉と包丁を取り合いながら、何事か言い争っている。
「染ちゃんナスは不味いよ!」
「知るか!お前も好き嫌い無くせよ!」
「ま、まぁカレーにナスはありやけど・・・」
煩い談話室の扉を閉めて、京義は自分の部屋に戻ろうとして階段を上っていた。すると自動扉が開いて、ふらりと一禾が帰ってきた。京義と目が合うと、一禾はゆっくり微笑んで見せた。京義はそれに眉を顰めて不快感を露にする。一禾は暫く居なかったような気がするが、その割には軽装だった。
「ただいま、京義」
「・・・」
「あれ、喜んでくれないの?」
「・・・染なら中だぞ」
「ありがと」
相変わらず、一禾はその柔らかい物腰を崩すことは無かった。そうしてそのまま、一禾が談話室の方へ向かって歩き出した。京義は堪らずその後姿に声を掛けた。
「おい」
「・・・?」
「何で帰って来たんだよ」
いつだって、一禾が居なくなるときはいつだって、京義はそのまま、二度とここには帰って来なければ良いのにと思っていた。そうして、いつだって一禾は京義の期待を裏切って、ここに戻って来ていた。例外なく今回も。柔らかい笑顔を誰にでも向けて。
「俺の帰る場所はここだよ、ここにしかない」
「・・・染が居るからだろ」
「そうだよ」
即答だった。いつだって染は一禾の唯一無二だった。泣きそうになるくらいに、それは正確なことだった。そう言う一禾のその目には迷いも憂いも何も無い。
「そうかよ」
階段を上ってそのまま、その後一禾がどうしたのかを京義は知らない。
一禾が談話室の扉を開けた時、誰一人としてこちらを振り返らなかった。皆は皆して一つの鍋と、その前を取り合っていた。一禾は呆れたが、これで京義が逃げてきたのか、と同時に納得もした。
「こういうときは年長者が味見するもんだろ・・・!」
「酷い!こんな時だけ年寄りを引っ張り出すなんて!紅夜くんさぁ食べて!若いんだから!」
「なんちゅう・・・!染さんが食べや!ハヤシライスのルー入れたの染さんやで!」
「いいから夏衣!口開けろっつってんだよ!」
「紅夜くん!ほら!多分オイシイよ!」
「多分って何やねん!染さんが責任取るべきやろ!」
三人で言い合いながら、お玉を押したり引いたりしている。一禾は溜め息を吐いた。これだからホテルの人間は料理をするべきではないのに。一禾が居ないと誰の好奇心を逆なでするのか、何かと怪しいものを作っては食材を駄目にしている。一禾はキッチンに歩み寄ると、染が夏衣の口を無理矢理開かせ、そこに流し込もうとしていた怪しい液体の入ったお玉を取り上げ、それを口に流し込んだ。
「あ」
「え」
「うわ」
「・・・不味いね」
一禾はやけに爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。残りの三人は一体どんな顔をして良いのか分からず、ぽかんとしている。
「・・・い、いちか・・・」
「君たち相変わらずだね、それに紅夜くんまで!」
「う!・・・せやって・・・俺ひとりやったらカレーくらい・・・」
「そうだよー、僕と紅夜くんの愛のクッキングタイムをー」
「うるせぇ!」
皆元通り、そういう関係だ。誰が何を咎めるわけではなく、誰が何を不思議に思うことも無い。こういう風にいつだってなってきていたのだ。一禾はそれを肌で感じていた。テーブルの上にナイフとフォークが一禾の意思通り、きちんと並んでいる。一禾はキッチンの中で三人が駄目にした鍋を側に、いつものように何やら作っている。
「おかえり、一禾」
一禾は振り返って、にこりと笑った。
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