21 / 306
享楽だけが人生か Ⅰ
それは酷く唐突にやって来た。紅夜がいつものように染に渡す新聞や、夏衣に渡す郵便類を見に行っているときだった。その中に妙な封筒があった。いつもはダイレクトメールばかりなのに、茶色の封筒に達筆の文字で「白鳥夏衣様」と書かれている。持ち上げると心持ち重い。紅夜はそれを不審に思ったが、夏衣宛の郵便をまさか破って、中を見るわけにはいかない。紅夜はいつもの新聞とダイレクトメール、それにその茶色の封筒を持って「プラチナ」の中に入って行った。京義はまだ上で眠っているのだろうか。
そうして、それから一週間が過ぎた。やはり、物事はある日突然起こるのである。その日、紅夜が京義を起こして下に降りていくと、一禾と染はソファーに座って、夏衣を見上げていた。大学生の二人は今日講義が無いらしい。夏衣はというと、何故かスーツを着込んでいる。
「・・・お、はよう、ございます」
「お、はーよー!紅夜くん今日もベリーキュートだね!食べちゃいたいぐらいさ!」
「ナツ、セクハラだよ」
「おおっと!俺は一禾も好きだよ。何言ってんの」
「二人は学校あんのか、大変だなー」
「ナツさん、何でスーツ着てんの、どっか行くん?」
「あは、カッコいい?ね、カッコいい?」
「ナツも黙ってりゃそれなり何だけどね」
「・・・これだからな・・・」
「やだ!一禾、褒めないでよ!照れるじゃん!」
「・・・で、何なの。スーツ着ちゃってさ」
京義のネクタイは相変わらず曲がっている。結び方も間違っている。紅夜は意識が朦朧としている間に京義のネクタイを結んでやる。いつものことであった。染も一禾も学校に行かないので、いつもよりだらだらとしている。その中で夏衣だけが若干、いつもと違う。
「ふふ、知りたい?」
「・・・別に。じゃぁご飯にするか」
「待ってましたー!」
「・・・」
「ちょっと!ちょっと待ってよ!」
「何でやの、ナツさん。何や大事な用事?」
「実家に帰るのだ!」
皆いっせいにぽかんである。
「さ、ご飯食べよ」
「京義寝てんとご飯だけ食べて行きや」
「・・・ふぁ」
「あ、一禾しょうゆ取って」
「はーい」
「ちょっと待ってよ!何さ、皆して!」
夏衣だけが食卓につかずに泣き真似をするが、他の皆はそんなことを見ても居ない。京義は話を聞いているかどうかも怪しいし、一禾は朝食と高校生二人の弁当の用意に忙しく、染と紅夜は用意された朝食に目を輝かすことに忙しい。夏衣だけが置いてけぼりである。
「何さって・・・実家に帰ることがそんなに重大事由には思えないけど」
「そんなこと言って、俺が居なくて寂しくないの!皆!」
「全然」
「むしろせいせいだよ」
「そ・・・そんな・・・!」
「・・・っていうか、何で実家に帰るのにスーツなんだよ」
「そりゃまぁ、ちゃんとしとかないとね」
「ふーん・・・」
「多分怒られるんだよなぁ・・・」
黒いスーツに黒いネクタイ。正装というか、行き過ぎてまるで喪服のようである。薄茶色の髪を歳相応に切れば良いのにだらだらと伸ばしていて、若干肩にかかるぐらい、筋の通った鼻は高く、睫毛の一本一本まで薄い茶色。目は薄い赤色、珍しくピンクに近い色をしている。夏衣はその色があんまり好きにはなれなくて、それを隠すように黒縁の眼鏡をかけている。夏衣は黙っていれば一禾の言うようにそれなりに見えるのだが、喋りだすとこれなので完全に性格で損をしている。
「この歳になってまだフリーターだからいい加減就職しなさいとか何とか・・・」
「!」
「?」
「・・・ふぁ・・・」
「・・・な、ナツさんって・・・フリーターやったん!」
「え、あ、そうだよ。何だと思ってたの?」
振り返って夏衣が言うのに、紅夜が声を潜めた。
「知ってたん?一禾さん」
「まさか、初耳だよ」
「ここのオーナーって仕事じゃねぇのか・・・」
「っていうかあの性格でどこの企業が雇ってくれるんだよ」
「一禾さんそれは言い過ぎや・・・」
嗜めるように紅夜が言う。
「・・・あーあー・・・面倒くさーい!一禾一緒についてきてー」
「嫌に決まってるでしょ」
「ひどい!」
夏衣はまた泣き真似をするが、勿論、皆は見ていない。
「実家って京都のほうなん?」
「うん、そー」
「せやったらよろしくゆうといてください」
「おっけー」
「あ、そっか。紅夜はナツの親戚に世話になってたんだっけ」
「俺の親戚でもあるんやけど・・・」
「俺の居ない間に皆喧嘩しないようにね!」
「はーい」
「戸締りには気をつけてね、皆可愛いから!」
「分かったよ」
「うん。じゃぁ皆!行ってくるよ」
「いってらっしゃーい」
大袈裟なスーツケースを引っ張って、そういうわけで夏衣は朝から出掛けてしまった。残された「プラチナ」の住人は何も無かったかのように朝食を食べ始めた。
ともだちにシェアしよう!