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戦うことが望みなら Ⅲ
一禾はそう言うと意地悪そうに笑った。染は知っていた、そういう時の一禾はろくなことを考えていない。背中に冷たい汗が流れたが、ここで自分に拒否権は無い。ちらりと隣に座っている紅夜に助けを求めたが、紅夜は興味津々に一禾のほうを見ていて、とても自分のことを助けてくれる状況でも無さそうだ。
「・・・なに・・・条件って・・・」
「染ちゃんはいつもいつも家に篭ってばっかりで良くない」
「・・・だって・・・」
「まぁ、それはそうやなぁ」
「紅夜ぁ!」
「だからバイトしなさい」
「・・・」
「・・・」
「バイト!?」
一禾はベッドに座ったまま、その嫌味に長い足を組み替えた。バイト、それはなんとも染にとっては恐ろしい響きだった。そこにめくるめく人間関係、上下関係、人の波、客、店員、そして人間。染は一気に青ざめて、目の前がくらくらした。どう考えても無理だ。
「ええやん!そーや染さんバイトしぃや!」
「そ、そん・・・!・・・こうや・・・」
「そうだよ。大体京義だってバイトしてるのに。染ちゃんは大学生なんだよ?」
「・・・学生の本分は勉強です・・・」
「屁理屈言わない!そんなことでどうするの。就職出来ないよ」
「・・・そん・・・な・・・」
「俺だっていつまでも染ちゃんの面倒は見ていられないんだからね」
「・・・」
そんなことは分かっていた。でもそれを一禾がまさか自分に言うとは思わなかった。思わず顔を上げると、一禾はいつもの顔をしていた。何でもないような顔を。染はそれを見ながらあぁ、そうかと思っていた。良くは分からない。だけどそうして納得したのだ。
「なに、それでお前バイトすんの?」
「うん」
「・・・昨日来ないと思ったら今日はそれかー・・・」
「・・・別に・・・昨日はアレで、行きたくなかったし」
「しっかし、一禾にちょっと突き放されただけで何そんなに凹んでんだよ」
「・・・凹んでねー・・・し」
「いいや、凹んでるね!染の体から負のオーラが出てるのが俺にははっきり分かる!」
「・・・」
「お、おい、染」
「・・・だ、だって、一禾が」
「あぁ、はいはい。ショックだったんだな」
「だって、それって卒業したら俺とは離れて暮らすってことだろ・・・?」
「ちょっとは今まで一緒に暮らしてきたことを不可解に思え」
「何だよ、それ!飽きたらポイ捨てかよ!」
「意味が違うと思うよ、染」
染の態度はとても分かり易い。とても分かり易い形で染は傷付き、もう外には出たくないとその度に叫ぶように言う。どうしようもない、一禾でなくてもキヨは染の将来が非常に心配である。こんなことで大丈夫なのか、ちゃんと食っていけるのか。染はキヨの隣で鳴らない携帯を捏ね繰り回している。本当にバイトなんてする気があるのか、出来るのか。ましてや就職して働くなんて。
「キヨ・・・」
「言っとくけど、俺は一緒には暮らさないぞ」
「そんな・・・!」
「お前が居たらカノジョできねーじゃん!一生!」
「俺が代わりにカップ麺作ってあげるから・・・!」
「そんなもん俺、自分で出来るわ!大体カノジョの役割はカップ麺作ることじゃねーしよ」
頭を項垂れたまま、染はこくりと頭を動かした。全くこれだから仕方が無い。その黒い頭を撫でると、染が溜め息を吐いた。何に参っているのか、染はいつも何かに参っているから時々分からない。講義中の教授が喋るマイク越しのその声に掻き消されて、周りのざわざわは然程気にならない。
「で、何のバイトするんだよ」
「・・・一禾が・・・」
「あぁ、一禾の紹介?なら変なとこじゃなさそうだな」
「着替えて写真取るだけだって」
「・・・!?」
「お金なんて人を滅ぼす道具だってのに・・・」
「・・・お、お前それやばくないか?」
「ヤバイ?」
「やばいよ!何それ!」
「何って・・・バイト」
「そそそ、それだよ!」
「何が?」
「バイトの内容だよ!脱ぐだけ脱がせといて写真撮る気じゃねーだろうな!」
「男の裸なんて撮って誰が喜ぶんだよ、ないない」
「お前、お前はもっと自覚しろ!馬鹿!」
「馬鹿じゃねーし!」
「そこじゃねぇだろ!着替えてってもし仮に着替えたとしよう」
「仮じゃなくて着替えるよ、多分」
「何着させられるかわかんねーぜ!ひぃ!恐ろしい世界!」
「俺はキヨのが恐ろしいよ」
キヨは時々思うけれど、染は自分以外の自分に優しくしてくれる人間には酷く執着する癖があるのに、自分のことになると途端に投げやりになってしまう。本当のところをどう思っているのか分からないが、今のことだって別にそうでも良いぐらいには思っていそうである。キヨは時々思うけれど、怖くて染には聞けないで居る。
「大丈夫だよ、一禾の紹介だし」
「・・・それもまた怪しくねーか」
「そんなことばっか言ってるとまた一禾に怒られるよ、キヨ」
「そうじゃなくても俺は怒られてんだよ」
「そんなに心配ならついてきても良いけど」
「・・・」
「何だよ、俺のこと心配なんだろ、キヨ」
「心配だけど、そんなことしたらそれこそ一禾に怒鳴られるじゃん」
「・・・あっそう」
「うんそー。ま、頑張れ、染」
「・・・頑張る、し」
シャーペンを回しながら俯く染。キヨは大人になろうとしているのかなぁと思って、その黒い頭を激励のつもりでぽんぽんと叩いた。
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