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戦うことが望みなら Ⅵ
その夜、染は半分泣きながら帰って来た。なんとスタジオからタクシーに乗って帰ってきたらしい。夏衣はお金を持っていない染の代わりに、タクシーの運転手に万札を差し出していた。タクシーの運転手も染なんか面倒臭い客を乗せてしまって、本当に迷惑だっただろう。夏衣が頭を下げて、タクシーは去っていった。
「・・・ふー・・・」
「・・・ぅ・・・えっ・・・」
「何がそんなに怖かったんだよ、染ちゃん」
「うぅ・・・」
「全く、ご飯食べる?もう皆食べちゃったけど」
「・・・い、・・・いい・・・」
「明日学校あるんでしょ、また行かないって言ったら一禾に怒られるよ?」
「・・・っひ・・・っつ」
「泣くなよ、染ちゃーん・・・」
何も喋ろうとしない染を宥めて、夏衣は三階にある染の自室まで、連れて行った。扉が目の前で閉まった時、あぁ、また少し篭る気だなと思ったが、まぁ仕方ないのかもしれない。そう言えば、夏衣が始めて染に会ったときも、染はその綺麗な青に涙を浮かべて夏衣のことを見ていた。その染がバイトに出かけたのだ。これを進歩と言わず何と言うのだろう。
声をかけてももう無駄だと知っている扉を後に、夏衣は階段を降りていった。良いのか悪いのか分からないが、一禾は今お風呂に入っている。あの様子じゃ暫く泣かせてあげたほうが良いのかもしれない。取り敢えず、染はひとりで暫く泣くと、吹っ切れたのか数日後にはけろんとしているケースが多い。
「ナツさーん」
「紅夜くん、どうしたの?」
「染さん帰ってきたん?」
「うん。まぁ一応無事かなー・・・?」
「え?」
「今は泣いている最中だからそっとしておいてあげてね、まぁ暫くしたらおさまるから」
「・・・何や嫌なことでもあったんやろか・・・」
「いやー・・・別にそういうことじゃないと思うよ」
夏衣はそう言って、先刻降りてきた三階を見上げた。染はきっと今頃布団の中で出来るだけ小さくなって、しゃくり上げているに違いない。早く疲れて眠ることを祈るしかない。染は放っておくと干乾びるまできっと泣くだろうから、水分が必要だ。
「そういうことやないって・・・」
「染ちゃんは人の目が怖いんだ、それで良く泣く」
「・・・」
「でも放っておいたらまたすぐに良くなるから、後は一禾に任せとこう」
「・・・うん、でも・・・心配やなー・・・」
「俺はタクシー代のほうが心配だけど」
「え?」
まぁまぁと夏衣は笑って、紅夜は眉を顰めた。二階の踊り場で紅夜とは別れて、夏衣は下まで降りてきた。談話室に戻るとソファに寝転がっていた京義の姿はなく、代わりに風呂から上がったばかりの一禾が、テーブルの上にチューハイの缶を並べていた。
「一禾、何やってんの」
「何って晩餐?」
「駄目だよ、夜中にお酒飲んじゃ。太るよ」
「チューハイだから平気だよ。ナツも飲む?」
「それに、一禾にチューハイなんて似合わない。シャンパンとかないの、ワインとかさ」
「女みたいなこと言わないでよ、ナツ。俺はグレープフルーツサワーが好きなのにさ」
「一禾だって、それじゃ女の子だよ」
夏衣は溜め息を吐いて、一禾の真正面に座った。一禾はプルトップを指で弾いて、豪快に飲み下した。一禾にはパッケージの煩いチューハイなんか似合わない、ビールも下品で嫌。そんなことを言って、泡の立つ細いワイングラスを持たされたことがあった。何が好きで何が嫌いかくらい、自分で決められないものかと思ったが、まさか。一禾は笑って有難うと言うだけだ。
「そういや、染ちゃん帰ってきたよ」
「・・・あぁ、そう・・・――――って、え!?」
「京義はお風呂入ったのかな」
「ナツ!何でそれを先に言わないのさ!」
「えぇー、だって一禾がプロポーション気にしてるの知ってるしー」
「知ってるなら一日中お菓子食べるの止めてくれる!」
「そんな・・・年寄りから楽しみを奪うもんじゃないよ・・・」
「って、あぁ!そうじゃないし!俺見に行かなきゃ!」
「ひゅー、甘やかし、ひゅー!」
「煩い!」
一禾は今まで飲んでいたグレープフルーツサワーの缶を、夏衣の目の前に乱暴に置いた。悠長にこんなものを飲んでいる場合ではない。眼鏡の奥の瞳は笑っている。馬鹿にしている。一禾は頭にきたが、言い返す言葉は見つからない。まだ少し濡れている髪の毛が、変な風に冷たかった。
「そっとしといてあげたら?」
「・・・」
「染ちゃん大体三日も経ったら、忘れたように元気になってるじゃん」
「・・・駄目だよ」
「・・・あぁ、そう」
「それじゃ駄目だ、いつもと一緒でしょ。褒めてあげないと、染ちゃんのこと」
「・・・」
「褒めてあげないと、頑張った染ちゃんのこと」
「・・・そうかい」
扉を開けて一禾が談話室から出て行こうとするのに、夏衣は一禾に新しいチューハイの缶を渡した。一禾は黙ってそれを受け取って、今度こそ出て行った。夏衣はそれを見ながら大きく息を吐いた。きっと涙も枯れて、それでも染は泣こうとするから、酒でも良いから持って行ってあげればいい。泣きたい染にこそ水分が必要だ。
(・・・あ、タクシー代)
まぁ、良いか。夏衣は呟いて一禾の飲みかけのグレープフルーツサワーを飲み下した。あぁ、甘い、甘い味がする。こんなもの幾ら飲んだって、酔えるとは思えない。一禾はこれが好きだと言い、案外中身は子どものようなところもあるのだ。
(間接チューだな・・・)
夜中にひとり、考えていたのはそんなこと。
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