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戦うことが望みなら Ⅶ
扉は硬く閉ざされて、こちらの進入を拒んでいるようだった。力を入れるとぺこりと凹むアルミ缶、どうして夏衣はこんなものを渡したのだろう。一禾はまずインターフォンを押してみた。ホテルの人間は余りこれを使わない。何故か直接扉を叩く。勿論中からは返事は無かった。一禾は控えめに扉を叩いてみた。応答は無い。ノブに手をかけるとそれはゆっくりと何の障害もなく回った。
「・・・染ちゃん」
「・・・」
依然応答は無い。奥のベッドの中に染は居る。床には染の何やらメモしたルーズリーフが散っている。本棚に並べられた面倒臭くてややこしい本、染はこれが好きで、良く読み耽っている。その割に頭のほうはあんまり良くないのだが。一禾は真っ直ぐ染の部屋を横切って、奥のベッドの側までやって来た。端っこに腰をかけるとふくらみが少し動いた。一禾は布団の上から染を撫でた。
「染ちゃん」
「・・・」
「染ちゃん」
「・・・いちか」
顔を出して、染は鼻を啜った。顔は赤く、目も赤い。弱弱しく名前を呼んで、染はまたしゃくり上げる。染には怖いものが沢山あった。外も怖かったが中も怖かった。染は可哀想なほどに、環境に怯えて過ごしている。いつか安らぎが訪れることがあるのだろうかとその赤い目を見ながら考える。でもその平穏な世界で、染は本当に幸せなのか、とも。黒い髪の毛が白い頬に張り付く、随分泣いていたのか、しっとりと濡れてしまっていた。
「・・・染ちゃん、どうだった?」
「・・・怖かった・・・」
「・・・そう」
「もう、・・・二度と嫌だ・・・二度と、行きた、く・・・ない・・・」
それは染の正直な感想だ。一禾は染の頭を撫でて、少し俯いていた。染は一旦落ち着いていたのに、また泣き出してしまった。懐かしい、一禾は思った。染がこうして泣くのは珍しいことではないが、何となく懐かしい気分だった。一禾は染の髪の毛を撫でて、染は時々しゃくり上げて静かに泣いていた。
「頑張ったね、染ちゃん」
「・・・」
「偉い、偉い。ひとりでよく頑張ったね、染ちゃん」
「・・・――――」
自分はやはり夏衣の言うように染のことを甘やかして生きてきたのかもしれないし、これからだってそうかもしれない。染は左手で涙を拭いて、口元だけで少し笑って見せた。
「・・・だって、一禾は・・・」
「ん?」
「・・・いいや、・・・まだいい・・・」
「何それ」
一禾は居なくなる運命の人だ。染は誰の為に頑張ったわけでもない。倒れないように足を踏ん張って、涙を流さないように唇を噛んで、嫌いなカメラに笑ったりして。白い壁に頭をつけて、染は頬の上を涙が滑っていくのが分かった。それを口にするのは怖いから、まだ言えないし、言わない。
「泣くほど怖かった?」
「・・・外はいつも怖い・・・」
「そう」
「いつも、怖くて堪らないよ、俺は」
「・・・どうして染ちゃんはプラチナに来たの?」
「・・・ナツが来いって言ったから」
「ナツのことは?怖いの?」
「・・・どうだろ、でも多分、その時は怖かった・・・ナツ、チェーンソー持ってたし・・・」
「中々バイオレンスな出会い方だね」
「でも一禾が」
染の頬には涙の跡があり、まだ赤みが残っている。染はその顔を少し緩ませた。その完璧さは時々揺らいで、でもだからこそ美しいのだと思わせる。完璧なんて程遠い、一禾は知っている。染はもっと良く分かっている。だって自分のことだから、染は諦めたようにそう俯いて言うのが常だった。
「一禾が一緒に来てくれるって言ったから」
「・・・」
目を細めて染はそうぽつりと呟くように言った。心臓をぎゅっと掴まれて、何だか息が苦しい。そんな風な穏やかな顔をして言わないで欲しい。一禾の知っている染はそんな風にはしない。こんなこともきっと言わない。その夜、染は少し可笑しかった。いつも可笑しいといえば可笑しいのかもしれないが、その夜は特別に可笑しかった。
「・・・一禾」
「なに?」
「手、握っていい?」
「・・・どうしたの?」
「ううん、良いんだ・・・別に」
「染ちゃん?」
握った手のひらは熱くて湿っている。部屋中涙の匂いで敷き詰められた夜中、何もしないでただふたりでぼんやりとしていた。上手く生きられるようになればいい、一禾が居なくなってしまう前に。でも今はまだ、一禾は側に居てくれる。いつか居なくなる、いつか消えてなくなる運命の人の手を握って、染はいつだって今日で世界が終わってしまえば良いのにと思っている。
染はその昔、閉ざした暗い部屋の中から出られなくなって、いや、出たいなんて一つも思っていなくて、このまま自分は眠るように死んで行くのだとそんなことばかり考えていた。そうしてそう考えることが、特別苦痛だとは思っていなかった。その頃よりは少しマシになったかもしれないが、染は時々まだ考える。あの日あそこの部屋に閉じこもって考えていたことを。世界がこのまま眠るように死んでしまえば良いのにと思っていたことを。
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