37 / 306
死んだ魚の夜
夜はただひたすらに長いと思う。京義はぼんやりと窓の外を見ていた。遠くにきらきらした点が散らばって見える。京義の生活はほとんど逆転していて、夜ほど眠くならないのが常だった。だからこそひたすらに長いと思うのか、全てが切れずに繋がっている生活の断片を、こうして感じたり感じなかったりするのはどうしてなのか。京義は考えていた。どうせ夜は長いので、考える時間は沢山あるのだ。
「・・・京義、どうしたの」
「何見てるの・・・何か面白いものでもあるの?」
眠っていたはずの夏衣がそう言ったので、京義は背筋が寒くなった。実際服は着ていなかったが、それとは別のところで身震いした。面倒なので返事はしない。動く点はきっと車だ。夜は長いので起きている人も居る。取り敢えず、動く点の数だけは起きている人が居るのだろう。京義はぼんやりとそれを見続けていた。隣で夏衣が起き上がって欠伸をした。眠いなら眠っていればいい。京義は窓から目を離さない。
「シカトは無くない?何か言おうよー」
「・・・火」
「ひ?」
「火、ライター取って」
京義は目線をそのままに、無愛想にそう言った。夏衣は目を擦って、サイドテーブルに置いてあったいつもの黒縁眼鏡を取った。夏衣のそれには、実は度が入っていない。しかし、夏衣は執拗にそれをつけ、外すのは眠る時ぐらいである。酷い時はかけたまま眠っていることもある。
「はいはい、女王さま」
夏衣はいつもの調子でそう言って、冷たい京義の頬に音を立ててキスをした。京義が嫌がって睨むのを、夏衣は喜んでいるのだ。それでも京義はその頭を押し返した。やはり目の奥は笑っている。夏衣は煙草の箱から一本取り出すと、フィルターを此方にして差し出した。京義は苛立つ気分のまま、それを銜える。ライターの火が暗い部屋に揺らめいて、京義の煙草に火が付いた。
「・・・」
「寝煙草は良くないんじゃない?火事の元だよ」
「燃えてお前が死ねばいいのに」
「いやん、その時は道連れだね、京義」
「・・・死ねばいいよ、ホント。お前も染もだ」
「・・・俺は良いけど、染ちゃんのは八つ当たりでしょ」
「・・・」
「良くないよ、京義」
染の話題になると京義が閉口するのは、いつものことだった。その冷たい表情は何も変わらないけれど、心の中は一体如何思っているのか分からない。灰皿を黙って差し出すと、京義はそこに少し灰を落とした。こんなところでみすみす死ぬわけにも行かなかった、二人とも。
「まぁ良いけどねー」
「・・・何がだよ」
「京義が染ちゃんのこと嫌いなの、俺にはちょっと分かるしね」
「お前だって嫌いなんだろ」
「いや、嫌いじゃないよ。何てこと言うんだ、この子は」
「・・・」
「仕方ないでしょ」
「・・・何が」
「一禾はあの子のものなんだから」
後ろに体重をかけると軋むベッドの上、京義は布団の上にぽとりと灰が落ちるのをただ見ていた。後ろから夏衣が手を伸ばして、京義の煙草を取り灰皿で揉み消した。残ったのは苦い味の煙だけ。ちかちかとオレンジが瞬いているのが見える。でももうそれを綺麗とは思えなかった。
「・・・もう寝たら?明日も学校でしょ」
「・・・」
「京義」
「・・・帰る」
京義はベッドを降りて、自分のシャツを被った。夏衣は一旦ベッドに横たえた体を起こして、やたら素早く服を着る京義をぼんやりと見ていた。三時を少し回っている。夜はまだまだこれからだというのに。京義はサイドテーブルに置いてあった煙草の箱とライターだけ右手で掴んだ。
「あれ、怒った?」
「図星だね。御免ね」
へらりと夏衣は口元だけで笑う。榛色した少し長い髪の毛が、肌色の上をさらさら流れる。振り返った京義は酷い顔をしていた。掴んだ煙草の箱とライターを夏衣に思いっきり投げつけて、京義は肩で息を吐いた。ライターは額に当たって、箱は頬を掠って両方ともベッドの上に落ちた。
「死ねよ、お前」
「・・・挨拶だね」
「ホントに死ね、さっさと死ね。お前も、染もだ」
夏衣はそれに、ただ笑っただけだった。京義は扉を乱暴に閉めて出て行く。もう何も考えたくないから、早くベッドの中に逃げ込んで、丸くなって眠りたい。夜は京義を眠らせてくれなくて、悪夢ばかり見ている。夢ならば良かった。いつか覚める夢だったら、どんなに悪くてもこれは真実ではないから。
「・・・あぁ、・・・クソ・・・」
逃げ込んだ何も無い部屋の、冷たい床に座って、ただ白いばかりの壁を殴ると指先が痺れる。恨めしいのは、憎らしいのは、本当は誰だ。京義は頭を抱えた。早く夜が終わって、明日がはじまればいい。太陽が昇ったら、また眠れるようになる。痛いから夢じゃない。夢じゃないから覚めない。覚めないからきっと痛いんだ。
ともだちにシェアしよう!