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不幸になるよ Ⅳ

がらり、と何もない部屋にそれは響いて、窓際に立っていた一人の女の子が振り返った。紅夜は教室の中に入って、扉を閉めた。がらりとまた同じように音を立てて扉が閉まる。女の子は何も言わなかった。顔は知らない、名前も知らなかった。 「こんにちは、相原です」 「・・・こんにちは」 紅夜は出来るだけ、また今度も同じように明るい声を出してそう言った。それ以上、どう言ったら良いのか分からない。こういう空気は苦手だ。女の子は震える声でそう返した。ネクタイは臙脂で、紅夜と同じ一年生だろうということが分かる。でもそれぐらいだ、彼女の情報なんていうものは。有紀が一枚噛んでいるところを見ると、隣のクラスの生徒なのかもしれない。 「・・・あの」 「はい?」 「あの、御免なさい・・・瀬戸くんと仲良いから頼んじゃって・・・」 「あ、ええよ。それは。俺に謝ることと違うし」 「・・・うん」 「それで?」 「・・・」 彼女、彼女は何も言わずに少し黙った。紅夜もそれ以上言葉を求めることはしなかった。まだサッカー部の声が聞こえている。京義は今もまだ練習しているだろうか、していたら良いけど、先に帰ったと思われるのは嫌だった。やはり何か一言言ってから来るべきだったかもしれない。俯いたまま暫く、彼女は髪を弄っていた。そうやって言葉を探している。何か、ここに似合う言葉を。 「あの、相原くん」 「はい」 「私、あなたのことが・・・――――」 「・・・」 それはどういう気持ちだろう。どこから搾り出したらそんな風に言えるのだろう。紅夜は黙って見ていた。頬を赤くして、考え抜いたその一番シンプルな方法を、その二文字を言いたくて言えないその気持ちを、紅夜は黙って見ていた。息が詰まるこの空き教室は、何も無いから何かあったほうがいいと思った。何かあったらこんな風に、空気の流れが悪くなったりしない。 「・・・好きです」 「・・・」 「ご、御免なさい、突然・・・」 「・・・有難う」 「・・・え?」 「有難う、嬉しい」 どうすればそんな風に出来るのか、本当は聞いておくべきだったもっと前から。この日のために用意しておくべきだった。でもこんな日が来なきゃいいと思っていたし、用意する自分はそれこそ自意識過剰である。だから紅夜は時々、どうやって笑ったらいいかなんて忘れてしまう。どうやって笑っていたのか、思い出せないときがある。こういうとき笑ったりしないほうが良かったのかもしれなかったけれど、賢い人間は笑ったりしないのかもしれないけれど、その時そうするぐらいしか、思い浮かばなかったのも確かなことだった。 「・・・」 「・・・でも、御免な」 「・・・あ・・・うん」 「御免、俺今付き合ったりとか、そういうこと出来ひんねん」 「・・・わ、分かった・・・御免」 「いや、謝ることやないやん」 「あ、そう、だね・・・御免・・・」 「・・・うん」 頼むからそんな顔だけはして欲しくなかったけれど、どうして良いのか分からなくて、紅夜は黙って立っていた。彼女は俯いて、その大きな目から涙を零して見せたけれど、その時どういう言葉を掛ければいいのか、分からなかった。御免も有難うも全然違う気がするけど、他に似合う言葉も見つけられない。空気の流れが悪い部屋で、ふたりともどうすることも出来なくて途方に暮れていた。 「・・・」 「・・・」 空はどんどん迫ってきて、誰かのピアノの音がする。 5階の第4音楽室は空き教室だった。大体音楽なんて授業は一年のうちしかない上に、一週間のうちに一時間しかないのだから、第4音楽室なんて誰も使わないことぐらい分かりそうなものなのに。第4音楽室はグランドピアノが置いてあって、机が少し後ろに並べられているだけの部屋だった。鍵はいつもかかっていない。第3までは4階にあり、放課後は吹奏楽部が使っている。 紅夜はそこを訪れていた。近づいていくとピアノの音がする。扉は締め切られて、中の様子は見えない。でも誰がそこに座っているのか、紅夜は知っていた。扉を開けると、京義がいつものように熱心に指を動かしている。ピアノの上に置かれた、いつもはない青い表紙の楽譜が少し揺らいで見えた。 京義は何も言わなかったし、紅夜も暫く言葉を失っていた。扉を閉めて、謝ろうと思ったけれど、喉につかえて言葉は出てこなかった。京義が鳴らす、知らない音楽。微かに聞こえたのはこれだったのか、それとも吹奏楽部の演奏だったのか、紅夜には分からなかった。扉に凭れて聞いていた、京義が鳴らす音楽はいつも冷たくて、切ない音をしているような気がする。 泣いたあの子の顔が浮かんで、有紀の少し笑った顔が浮かんで、少しずつ消えていった。京義はきっと何も聞かないし、興味も全然無いのだろう。だから泣いても良いかなと思ったけれど、泣くような理由も特には思い当たらなかった。窓の外にオレンジが広がって、電気の付いていないこの部屋は徐々に暗闇に占領される。それだけで充分美しくて悲しいから、泣いて良かったのかもしれなかった。

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