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不幸になるよ Ⅴ

夕焼けが美しい。こんなに遅くまで学校に残っていたのは初めてだった。昼が長くなり夜が短くなる、それを見ながら紅夜の隣で京義は欠伸をしていた。バスは来ないで、いつも通り。煩わしいラジオのノイズのように、何か聞こえているのが一番良いのに、そこは随分静かだった。 「・・・さっき」 「・・・」 「何の曲弾いてたん?」 「・・・別に」 「 お、教えてくれたってええやん!」 「どうせ分かんねぇ癖に」 「せ、せやけど・・・」 「・・・それより」 「・・・?」 体重をかけるときしりと歪んだ音を立てるベンチ。京義のシャツのボタンは上からふたつ開いていて、ネクタイも緩めて掛かっているだけだった。紅夜みたいにきっちりと締めている生徒が半分、嵐や京義のように適当に着ている生徒が半分、それでも皆頭だけはいい。 「何やってたんだ、お前」 「・・・え、」 「俺を待たせるとはいい度胸じゃねぇの」 「・・・ご、御免・・・時間掛かるとは思わへんかったから・・・」 「・・・」 「あ、・・・うん。まぁ」 「・・・ふーん」 京義は特別何も言わなかった。それが京義らしいといえば、らしいのかもしれない。赤い目を細めて、時々何を考えているのか分からないから、何と言えばいいのか分からない。遠くでカラスが鳴いているのが聞こえる。紅夜は一つ溜め息を吐いた。今日は溜め息を吐いてばかりだ。 「・・・俺なんかのどこがええんやろ・・・」 「・・・」 「何を見て俺やと思って、何を見て好きになんのやろ・・・」 「・・・そんなこと考えてねぇんじゃねぇの」 「え?」 「大体そんなこと、俺たちには分からねぇだろ」 「・・・京義も?」 「・・・お前俺のこと何だと思ってんだ」 「御免・・・」 そう言えば、こんな話をするのは二回目だった。あの時京義は何と言っていたか、自分なんて恋愛対象にしないと、その時弾いていた曲も、寂しい音のする音楽だった。紅夜は控えめに謝って、そうして少し笑った。自分たちには分からない、分からないレベルの話。 「何でかなぁ・・・皆可愛くて、皆好きやと思うのに・・・」 「・・・」 「何で泣かせてしまうんやろ・・・」 「・・・」 「・・・」 「・・・将来」 「へ?」 「将来、一禾みたいになるぞ」 不意に京義は立ち上がって、紅夜はバスが来たことを悟った。あんな大人にはならないと決めているのに、それを敢えて言ってくる京義の背中は汗の一つもかいていない。暑さでぼんやりした頭、京義は汗なんてかくはずがない。だってそんなものはきっと似合わないから。そうだから美しくて、そうだから冷たい。 部屋の中は冷房が利いていて涼しい。染はどこに行ったのだろうと思ったけれど、多分ホテルの中に居るのだろう。染は滅多に外出したりしない。テレビは面白くないが、今日は勉強する気にもなれない。紅夜はその光る画面を見ていた。ちかちかと煩くて、何だか少しその騒がしさにはいつも癒されていた。テーブルでは一禾がグレープフルーツジュースを飲んでいた。 「なぁ、一禾さん」 「んー・・・?」 「一禾さんって、どのくらい告白されてんの?」 「・・・んー・・・さぁ」 「さぁ!?」 「分かんないよ、一々数えてないし」 「・・・」 「何その顔」 「・・・い、いやぁ・・・は、薄情やなぁと思って・・・」 「どもるわりにははっきり言うね」 一禾はその半透明のグラスに口をつけて、口元だけで笑った。慣れているのだと、紅夜はそう思った。行為そのものじゃなくて、好意を寄せられるのも多分、こんな話をされるのも多分。一禾のそういうところは良くないと思うし、一禾なら隠すことぐらい出来そうなものなのに、紅夜は思う。 「女の子だってすぐ忘れるもんだよ、俺のことも、俺なんか好きになってたことも」 「・・・なんかって」 「どうしたの、紅夜くん。好きな子でも出来たわけ?」 「・・・別に、そんなんやないけど・・・」 「ふーん、いいねぇ、青春だ」 「・・・」 そうだったら良かったのかもしれない、でも多分動くことになるここで、そんなことに現を抜かしているわけにもいかなかった。紅夜のそれは切実だったけれど、一禾の口から出るそれは軽くて残念な響きだった。一禾は美しくて、でも京義が冷たいように、その横顔は残酷である。優しいから、優しいだけ、残酷であると紅夜は思った。それは寂しいことだったけれど、だからそれが一禾で、だからこそ一禾である証明だった。 「紅夜くんと付き合う女の子が羨ましいよ」 「・・・いきなりやな・・・」 「あはは、でも大事にしてくれそうだし」 「・・・」 「俺が女の子だったら紅夜くんが良いなと思うよ」 それが本当の気持ちなのかどうか、結局確かめることは出来ない。あそこで彼女が流した涙がそういうわけだったかどうかなんて、今となっては一禾も紅夜も分かることは出来ないのだ。 「・・・何か、照れるわ」 「あはは」 一禾が乾いた声で笑って、真意は永遠に窺い知れないのだと思った。

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