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不幸になるよ Ⅵ

その教室は湿った匂いがしていた。 「・・・御免な、相原」 「うん、ええよ。全然」 「・・・でも、御免」 「何で有紀ちゃんが謝るねん」 そのことはもう忘れるつもりがいいと思った。一禾がそう言ったから、多分忘れるのが正しくて、忘れるのが望ましい。あんな風に目の前で泣かれたって、どうしようもないのが事実だって分かっている。有紀だって分かっていた。どこか遠くでチャイムが鳴っているような気がした。 「俺だってさ・・・こんなことしたくなかったんだよ」 「頼まれたん?」 「・・・あぁ、そう・・・」 「ふーん・・・」 「大体、相原とだってそんなに話したこと無かったし・・・」 「せやね。いつも嵐がおるからなぁ」 「・・・なぁ、そのことなんだけど」 でも流石にそれは無いかなと、紅夜は思い直して、スラックスの裾を捲くっていた手を止めた。今日は嵐に京義に言うように言ってきたから、昨日のようには怒られないだろうと思ったけれど、昨日のようにはピアノの音がしなかった。京義は何をしているのだろうか、音楽室に居るのだろうか。有紀がこちらを向いて、紅夜は背骨を教室の壁にぴたりとつけた。こうしていると幾分か涼しい。 「なに?」 「何で相原って嵐なんかと仲良くしてるわけ?」 「・・・なんかって・・・」 「だって、アレだよ。普通避けるじゃん」 「・・・いやぁ・・・俺も転入してきたん結構中途半端な時期やったし・・・」 「なに、絡まれたとか?」 「いや、ちゃうねん。嵐がひとりでおったからさ、浮いた二人同士ってことで」 「・・・御免」 「謝られたら余計悲しいやん!」 「だって・・・」 「や、まぁ・・・でも嵐ええ奴やし。結局はそれで良かったって思ってるよ」 「・・・ふーん・・・」 有紀はそれには特にリアクションしないで、ただそう言っただけだった。この教室は湿っている。そして換気が悪い。太陽はここまで届かないが、じりじりとそこまで来ているのは分かる。背中から焼ける感覚で、冷房の無い教室はとても暑いのだが、丁度そこは影になっていて、思ったよりは暑くなくてすんでいる。 「薄野も?」 「・・・あぁー・・・京義ね・・・」 「嵐に怒られた。アイツマジで俺に怒るとかありえねーし・・・」 「はは・・・そっかぁ」 「一緒に住んでるんだって?」 「あぁ、まぁ・・・何やアパートみたいな?」 「ふーん・・・」 「京義もええ奴やで、あんな格好してるから皆誤解してるけど」 「・・・御免」 「うん?」 「・・・御免な、相原」 「え、もうええよ。そんな謝らんでも」 「・・・」 紅夜はそうやって笑って、本当にそうだった。本当にそう思っていて、それ以上のことは無かった。スラックスの裾を捲くる。こうしないと随分暑かったが、この格好でふらふら歩いていると教師に注意されるのも分かっていた。かっちり締めているネクタイの首が暑くて苦しい。見れば有紀も同じように締めていた。 「・・・相原好きなひといるの?」 「え?」 「・・・だって断わったんでしょ」 「・・・あぁー・・・あぁー・・・そう・・・」 「・・・?」 「御免なぁ、・・・友達やったんやろ?」 「良いんだよ、別に。俺そんなつもりじゃなかったし」 「・・・」 「相原が謝ることなんてないよ」 有紀の横顔は白くて、紅夜は影に座ったままそれを見上げていた。賢そうな顔をしている、有紀を見た時紅夜はそう思った。それが感想で、率直な意見だった。有紀は紅夜が思っているほど優しくなく、予想を裏切って鋭い性格をしていた。はきはきモノを言う口と、眉を顰める癖がある。 「好きな人もカノジョもいいひん」 「・・・そんなに駄目だった?」 「いや、そういうんやないねん。俺、長いことここにはおられへんと思うし・・・」 「なに、相原転勤族なの?」 「・・・まぁ、そんなもん・・・」 「へー・・・じゃぁまた転校するんだ」 「多分な、それに・・・」 あの湿った教室で、風通りの悪い教室で、泣いた彼女に向かって言えば良かった。有難うでも御免でも足りない言葉を、埋められたのに、言えば良かった。そんな余裕がなくて、考えている暇はあったのに、頭の中はショートしていた。息が詰まって影が降りる。ここだってすぐに暑くなるだろう。 「不幸になる」 「・・・え?」 「俺なんかと付き合ったら、不幸になるよ」 「・・・何それ、どういう意味?」 「意味はそのまんま」 「・・・」 紅夜はスラックスの裾を元に戻すと立ち上がった。有紀はまだ机の上に座っている。眉を顰めて、いつもの顔。ピアノの音は聞こえない。 「不幸になる・・・?」 「うん、やから、なぁ」 「・・・」 「・・・」 「・・・相原」 本当はこんなこと自分で言ったりしたくない。紅夜は学校指定の鞄を持ち上げて、肩にかけた。振り返ると有紀はまだ机の上に座っている。この教室は風通りが悪い割には、結構涼しい。汗を掻いた額を拭って、今冷房のある教室に逃げ込んだらきっと風邪をひくなと思っていた。

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