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ノアメルの微笑
一禾の部屋はいい匂いがする。それが何の匂いか分からないけれど、いつもいい匂いがしている。一禾もいい匂いがする。そうしてそれが一体何の香りなのか、やっぱり染は知らなかった。誰かの女の匂いかもしれないし、香水の匂いなのかもしれない。
一禾の部屋には高いものが一杯ある。時計が右から順に並んでいて、どれも銀色で眩しい。そうして少し重い。一禾の細い手首に、それは時々似合わない高級感を放つ。時計は似合わないが、服はよく似合った。一禾は沢山スーツを持っていた。どこに着て行くのか、用途がさっぱり不明だ。染はリクルートスーツを一着持っているだけだった。それだって、入学式以来着ていない。次にそれを着ることが果たしてあるのかどうか、染にだって分からない。一禾のふかふかのベッドで寝返りを打つと、やはりいい匂いがした。
染は一禾のベッドから起き上がった。いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかないといつも思うのに、思うだけで留まっている。染は普段は使わない風呂場まで行って、そこにお湯を溜めた。後で夏衣に怒られるかもしれなかったけれど、あんまりそんなことは考えたくない。
お湯を張った浴槽にアロマオイルを垂らして、花を千切って入れた。どちらも一禾の部屋にあったもので、花瓶に差してあった花のほうは新しそうだった。アロマオイルの実態は掴めないが、多分要らないものだろう。適当に破いたフィルムが染の足元に散らばっている。いい匂いがしている風呂場のドアを閉めて、染は暫く床に座っていた。黄色と赤と紫、いい匂いは一禾に似ている。
染はゆっくり服を脱いで、お湯に足から浸かった。肩まで浸かって膝を丸めると、浴槽は自分で一杯になる。見上げれば白い煙、熱くて頭が朦朧としている。こうやって匂いを付ければ、少しは一禾みたいになれるかなと思っていた。綺麗な服が似合うようになるかもしれないし、外だって怖くなくなる。
今は何時だろう。誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。扉を叩く音に、返事をしないで染はそこでじっとしていた。じっとしていれば、見つからない。扉が開く音がして、染は少しだけ顔を上げた。誰かの影、がらりと風呂場の扉を開いて、そこから顔を覗かせたのは夏衣だった。
「染ちゃん!」
「・・・」
「あぁ、やっぱりここだったんだね・・・って言うかこんなに散らかして、一禾に怒られるよ」
「・・・ナツ」
「あーぁー・・・ふた開けっ放しだし・・・花!?」
「・・・部屋にあった」
「無残・・・染ちゃん、早く片付けとこう?一禾が帰ってくるよ」
「うん・・・」
「片付ける気ないよね」
「うん」
「うわぁ、はっきり答えたよ、この子は」
夏衣は煩い。夏衣は煩くて世話焼きだ。そうして結局何を考えているのか分からない。ゴミ箱に茎と残った花、アロマのフィルムを入れて、夏衣は風呂場の床に座った。いい匂いは少しむせる。夏衣は咳をして、首を回した。温かいより熱いくらいのお湯に浸かって、頭は考えることを止めている。
「・・・ナツ」
「なぁに、染ちゃん」
「ご飯出来てんの?」
「さぁ、まぁ三分で出来るから大丈夫だよ。お腹すいた?」
「・・・別に」
「そう」
「・・・」
「はー・・・しかし一禾は帰ってこないねー・・・」
「・・・そーゆーこと言うか、普通・・・」
「あっは、御免、御免」
「・・・ーーー」
ぐしぐしと少し湿った髪を撫でられる。夏衣は笑いながら、でも目の奥は笑っちゃいない。時々、一禾はSで困る、と嘆いている夏衣だって充分その気があるのだろうと染は思う。一禾は帰ってこないのに、この部屋は一禾の匂いがしている。それが一禾の匂いだったのかなんて、もう分からないけど。自分の鼻はそんなに良くないから、匂いなんて一々嗅ぎ分けられないのだろうと思った。
「待ってたって一禾は帰ってこないよ」
「・・・」
「俺とどうにかなる気ない?染ちゃん」
「・・・ナツは、誰でも良いんだな」
「良くないよ、可愛い子じゃなきゃ興味ないしね」
「・・・ふーん・・・」
「染ちゃんなら大歓迎、どう?」
「・・・ーーー」
夏衣の指が染の唇を辿って、背筋に響く感触。どう、という夏衣は笑っているが、本当は一体何を思っているのか知らない。染は暫く夏衣のしたいようにさせていた。どうでもいいと思っていたし、自分の価値なんてそこでは図れないとも思っていた。
「ナツ―――!」
「・・・げ、一禾!」
「やっぱりここか、染ちゃんに何てことするんだよ、この色魔!」
「ま、まだ何もしてませ・・・―――」
「煩い!する気だったでしょうが!死ね!」
突然のことに染はぼんやりとそれを見ていた。一禾は何の前触れもなく風呂場の扉を開けて、今は目の前で夏衣の首を絞めている。一体何がどうなったのか、染には分からない。
「し、死ぬ!ほんとに死ぬ・・・ってぇ!」
「染ちゃん!大丈夫?」
「・・・あ、あぁ・・・うん・・・」
「いちか・・・やりすぎだよ・・・一瞬お花畑が・・・」
「はぁ?煩いよ、静かにして」
「酷・・・」
「染ちゃんホントに?何もされてないだろうね?」
「だからしてないって・・・」
「・・・うん・・・」
「あー・・・良かった」
「ほらぁ!だから言ったじゃん!」
「何、っていうか勝手に俺の部屋入らないでよ、不法侵入で訴えるよ」
「・・・今更・・・」
「染ちゃん、お風呂上がったら降りてきて、ご飯にしよう」
そう言って一禾は笑った。そうやって笑った一禾を久しぶりに見たような。夏衣の腕を掴んで、風呂場の外に消える。こんな匂いじゃなかった。本物はもっと美しい。肩までお湯に浸かる。
(後で怒られるかな・・・)
それでも良かった。
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