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行き先は暗弱

翌日、起きると夏衣の姿は無かった。一禾がいつものように人数分の朝食を用意して、右手に昨日の包丁を握っていた。京義が帰ってきたのは朝方で、ニ三時間眠ったかと思ったら、もう紅夜に起こされて、強制的に談話室まで連れて行かれた。染は一禾が帰ってきていたので、目に見えて機嫌が良かった。 「京義、起きぃや、ご飯!」 「・・・あぁ・・・」 「ま、寝かせておいてあげたら?京義帰ってきたのさっきだしさ」 「・・・」 「でもー・・・折角の一禾さんのご飯やのに・・・」 「いいよ、いいよ。京義はそんなに食べるほうじゃないしさ」 「じゃあ俺が貰おうっと」 「・・・」 「京義、こっちおいで。ソファで寝ていたらいいよ」 この美味しい匂い前に、どうして眠っていられるのか染も紅夜も不思議だった。ぴくりともしないで、テーブルに突っ伏して眠っている京義をひょいと抱き上げて、一禾はソファまで運んでそこに眠らせた。だらりと落ちている腕をちゃんと戻して、一禾が戻ってくる。 「おー・・・凄いな、一禾さん」 「まぁね、俺はこれでも沢山の女の子を抱き上げてきたものさ」 「それはどうなんやろ・・・」 「京義なんて軽い軽い!」 「・・・んー・・・でも京義はもうちょっと食べてもなー・・・」 「まぁ確かに。京義って代謝悪そうだもんなー」 「染ちゃん代謝は関係ないよ」 「汗かかへんのそのせい・・・!」 紅夜は心配になって、ソファで眠っている京義に目を向けてみたが、ここからでは色の抜けた髪の毛しか見えなかった。いつもピアノを弾いている指は華奢で、思うほど線は細くがっちりしていない。 「美味い・・・流石一禾・・・」 「やっだ、染ちゃん!そんな、高級レストラン張りだなんて言われても俺どうしていいか・・・!」 「いや、そこまでは言うてへんで・・・」 「一禾!高級レストラン張りだな!お前の料理は!」 (言うた!) 今日もふたりはいつもの調子である。紅夜は苦笑して、残ったご飯をかき込んだ。朝というのは時間がないのが相場だが、ゆっくりしてもっと喋っていたい空気がここにはある。紅夜はそれが嬉しかったし、楽しかった。やっぱりここは昔とは違うのだ。息を詰めて呼吸の音ほど、捉えられずに過ごしていたあの頃とは違うのだ。感謝しなければならなかった。全てのものに、全てのひとに。 「・・・っていうかナツ遅くない?」 「そうだな、まだ寝てんのか?」 「あ、そうや」 「へ?」 「どうしたの、紅夜くん」 「ナツさん実家に帰るって、また暫く戻れへんかもって言ってた」 「・・・何だ、もうじゃぁ居ないんだ」 「へー・・・」 「・・・」 「どうしたの?紅夜くん」 「顔色悪いぞ?」 「あ、・・・いや・・・何でも・・・」 昨夜、怒ったような不機嫌な京義とすれ違った後、紅夜は談話室に下りてきていた。扉を開けると電気が付いていて、キッチンに人影が見えたから、きっと一禾だと思って声をかけようとして、言葉ごと飲み込んでしまった。そこに立っていたのは、夏衣だった。手に持っている白いものは一体何だろうと思ったけれど、それ以上に紅夜は驚いた。物音に気付いたぱっと夏衣が顔を上げて、視線が交差した。 「・・・ナツ・・・さん?」 「・・・あっはー、見られちゃったねー」 「・・・」 「やだ、やだ。声かけてよ、じっと見てるなんてスケベだぞ」 「・・・ナツさん」 「内緒だよ、紅夜くん」 そう言って、夏衣は涙を拭った。夏衣は表情ひとつ変えずに、声のひとつも漏らさないで、でも確かにその日泣いていた。無表情の頬に涙が痕をつけて、夏衣はそれでも微動にしない。静かな空気だけが談話室に立ち込めていた。でも夏衣は何も無かったかのように、涙を拭うと片目を瞑ってみせた。 「何か・・・あったんですか?」 「あったのかなぁ、無かったのかも。これからあるのかも、ね」 「・・・ナツさん」 「いいの、いいの。俺のことなんか心配しないでよー、ほらーこそばいじゃん!」 「・・・」 「内緒だよ、紅夜くん」 「・・・でも・・・」 「一禾にでもばれたらそれをネタに延々脅されるのは俺なんだから、絶対内緒にしておいてね!」 「・・・一禾さんはそんな・・・」 「いや、あの子はする。しちゃうんだよ、これが!俺と染ちゃんには厳しいからねー・・・」 夏衣はぽんぽんと紅夜の肩を叩いて、そうやって笑った。夏衣のあんな顔を、はじめて見た。ゆっくり空気は元に戻っていくけれど、何だか遣る瀬無かった。 「・・・ナツさん、俺、役には立てへんかもしれへんけど、何か悩んでることあるんやったら話ぐらいは・・・」 「・・・」 「お、俺なんかに言ってもしゃあないかもしれへんけど・・・」 「いい子だね、紅夜くんは」 「・・・別にそういうつもりやないです」 「有難う、これあげるね。おれい」 そう言って夏衣が差し出したのは、食べかけの白い林檎だった。頭を撫でられてそのまま、夏衣は実家に帰ることだけを告げると談話室を出て行った。朝にはもう出発するから、朝食の時間には間に合わないらしい。すっかり酸化してしまって、茶色くなった表面に歯を立てると、それは思ったよりずっと柔らかかった。 (・・・まず・・・) 内緒だよと、夏衣が言うから、紅夜は首を振って笑った。 「え、大丈夫なのー?」 「うん・・・ちゅうか、俺もう行かな!」 「おー・・・京義引っ張って行けよ」 「あ、ホンマや!京義!京義起きて!」 内緒だよと、夏衣が言うから。

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