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濡れ灰色のニンフ Ⅰ

京義は目を擦って起き上がった。また眠っていた。時計は8時を少し過ぎている。京義は体を起こして、ベッドとクローゼット以外は殆ど何も無い部屋を見渡した。今日はバイトだから、起き上がって寝巻き代わりのシャツを脱いで、クローゼットを開く。ピンと引っ張ったように形のついているシャツを引っ張ってきて、それに腕を通した。欠伸をして、下はスラックスに着替えて、ベルトを通す。財布だけポケットに突っ込むと、ジャケットは持ったまま部屋を出た。階段を下りると、そこに染が居て京義は聞こえないように舌打ちをした。 「あ、京義」 「・・・」 「何だ、お前そのカッコ。あ、今日バイトか!」 「・・・」 「メシ出来てるぞー、今日も一禾の傑作!」 「・・・」 ひとりで喋る染のほうに視線もくれないで、京義は欠伸をすると談話室に入っていった。ひとり残された染はがっくりと肩を落として傷心だ。毎回こうだけれど、毎回傷付く。しかし、暫くすると切り替えたのか嬉々として、京義の後を追って談話室に入っていった。 談話室には夕食が準備されていた。夏衣は居ないので、4人分。一禾が盛り付けた皿をキッチンから運んでくるのは紅夜である。京義はジャケットをソファに投げて、いつもの場所に座った。欠伸をして、紅夜の運んできたグリーンピースのクリームスープをスプーンで掬って口に入れた。 「こら、京義まだやで!」 「・・・」 「いいよ、いいよ。紅夜くん」 「えー、せやって・・・」 「京義今日バイトでしょ、先に食べて行かないとね」 「・・・」 「あぁ、そうなんや。もーしゃーないなー・・・」 「・・・」 京義は黙っているだけで、紅夜がサラダを目の前に置いてくれる。ぼんやりしたまま、運ばれてきた順に適量、と言っても京義は余り食べるほうではないので、ほんの少し食べると席を立った。その頃には染もやって来て、紅夜もテーブルに落ち着いていた。 「京義、行くの?」 「・・・あぁ」 「そう、じゃあ気をつけて、いってらっしゃい」 「・・・」 「いってらっしゃい」 一禾が笑うのに合わせて、紅夜もそう言って手を振った。京義はジャケットを拾うと、すっかり騒がしくなってしまった談話室から出て行った。一禾は染が熱心に見ていたテレビを遠隔操作で消して、チャンネルをカウンターの上に置いた。染が恨めしそうに一禾を見やるも、それは知らない振りである。 「今のとこもうちょっと・・・」 「だーめ、食事中にテレビを見るのは禁止!」 「そんな・・・」 「行儀悪いで、染さん」 「・・・いや・・・だって・・・」 「俺が一生懸命作ったのに、そんなことされちゃ寂しいでしょ」 「・・・そういうつもりじゃ」 「じゃあ食べる、食べてから見る」 「・・・はーい・・・」 染は素直に返事をして、置いていた箸を取った。今日は夏衣も京義もいない、たった3人だけの食事でそれでなくても少し寂しかった。暫くと言って出て行った夏衣は、もうすぐ一ヶ月経つのに帰ってこない。でも大体夏衣がホテルを空けるときは、一ヶ月くらい帰って来ないのだった。そう言えば、春先もそうだった。紅夜はぼんやりとその時のことを思い出していた。 「・・・なぁ、一禾」 「なに?」 「京義ってさ」 「?」 「・・・俺のこと嫌いなのかな・・・」 「!!?」 「・・・え?どうしたの?染ちゃん」 「だって・・・あんまり喋ってくれないし・・・」 「な、なにゆうてんねん染さん!俺にやって全然喋ってくれへんで!」 「え、そうなの?」 紅夜の脳裏に一瞬、洗濯物を干していた時の京義の言葉が過ぎった。あぁ、嫌いだねと京義はまるで当然かのように漏らして、その上、死ねばいいと暴言を吐いていた。染本人には流石に言っていないらしく、紅夜は安心した。染本人にそんなことを面と向かって言おうものなら、きっと染は本当に死んでしまう。それは単なる想像だったけれど、有り得なくも無いので紅夜は身震いした。 「俺には結構喋ってくれるけどなー・・・」 「一禾は一禾だからな・・・」 「意味分かんないよ、染ちゃん」 「気にせんときって、染さん」 「そうかなぁ・・・だってさっきも・・・かなり露骨に無視され・・・」 「!!?」 「京義は寝起き悪いからね、眠かったんじゃない?」 「そ、そうやで、染さん!俺なんか無視されるなんてしょっちゅうなんやからな!」 「それはそれで問題だよ、紅夜くん」 京義と一緒に居る時間が比較的長いほうの紅夜は、何度もそんな目に遭っている。京義がちゃんと返事をしてくれるときのほうが案外珍しいのかも、とまで思ってしまう。京義は何も知らないようで、本当は何でも知っていそうで、その奥に踏み込むのが怖いような。 「そういやぁさ、京義って何のバイトしてんだ?」 「・・・え、何かお酒出す店やって・・・ゆってへんかった?」 「うん、そうらしい」 「そうらしいって・・・」 「知らないのかよ」 「うん、何か良く俺も知らないんだよねー・・・居酒屋なのかな・・・それにしてはこんな時間から行かなくてもね」 「何や、一禾さんもよう知らんのかぁ」 「まぁ、何か怪しい店じゃないらしいんだけどさ」 「・・・ふーん」 京義のことを知っている人は、ホテルの中には居なかった。いつも無愛想にしているか、眠っているかの京義の口から語られるのは常に、京義のこととは違っていたように思う。京義が言葉少なに語る、そのどれが一体彼を形作っているのか、それは誰にも分からないことだった。

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