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濡れ灰色のニンフ Ⅱ
店の中は証明が半分くらい落とされて、少し薄暗くなっている。カウンターに立って、キヨはグラスを磨いていた。今日は従業員の一人からヘルプを頼まれて、二時間前に来たところだったが、これを拭き終わったらもうシフトが交代なので、帰らなければならなかった。店の中には客が少なく、皆小声で喋るものだから、BGMでかかっている知らない音楽がやたらと響いて聞こえる。
「笹倉くん」
「あ、・・・交代ですか?」
「いや、そうなんだけど、違うみたい。ちょっと電話代わってくれる?」
「何かあったんですか?」
「うん、分かんない。片瀬さんから」
「はい」
店長に呼ばれて、スタッフルームに顔を出すと、よく分からない説明をされて受話器を渡された。何だか嫌な予感がする。キヨは布巾を机の上に投げて、事務所の椅子に座った。代わりに店長がカウンターに向かった。キヨが事務所の受話器を耳に当てると、そこから悲痛な声が聞こえてきた。
「はい?」
『さーさーくーらーぁ・・・』
「何ですか、っていうか来て下さいよ。今何処なんですか」
『いや、ちょっとそれが今日無理みたいな・・・?』
「みたいなじゃないっすよ!」
『御免!御免!お前さっき来たとこなんだろ・・・?』
「・・・っちぃ!店長余計な・・・」
『舌打ちが聞こえたが気のせいだよな・・・?』
「いっこ貸しですからねー・・・」
『おお!流石笹倉!おキヨさま!』
「何すかそのの変な呼び方・・・」
『それじゃぁ頼むなー』
「・・・分かりました」
がちり、電話を切ったら辺りがやたら静かな気がした。明日学校があるというのに、こちらは気ままなフリーターとは違うのに。そうは思うが、仕方なくキヨは立ち上がって、先刻投げた布巾を取った。扉を開けて、カウンターに戻る。キヨの拭いていたグラスはそのままの状態で放置されており、店長は酒の点検をしていた。
「何だって?片瀬さん」
「・・・何か良く分からないです、でも今日は来ないそうです」
「ふーん・・・笹倉くん代わってあげたの?」
「えぇ、まぁ。俺深夜入ったこと無いですけど、大丈夫ですかね?」
「やること一緒だからね、大丈夫だよ」
深夜はふたりらしく、もうひとりいたアルバイトはにこやかに帰って行ってしまった。片瀬と親交があったのがやはりいけなかった。だからこそ片瀬はキヨを指名したのだろうし。明日の授業のことは心配だったが、それは考えないことにした。そうでなくても寝ていることは多い。
「あ、今日は京義くんの日だった」
「け・・・誰ですか、それ」
「ウチのアルバイト、時々来てくれるんだよね」
「え、じゃあ俺帰っても良いんですか?」
「いや、駄目だけど」
「何それ!」
「京義くんは別なの、だから笹倉くんは居てよね」
「・・・はーい・・・」
「代わりに良いもの見られるからさ」
「・・・良いもの?何すか、その怪しい響き・・・ま、まさか店長・・・!」
「まぁ、多分君の想像は裏切っちゃうと思うけど」
「女の子でしょ!そうでしょ!」
「違います」
染のせいで、大学に入ってからと言うものの、女の子という女の子を避ける生活を送っているキヨにしてみれば、それは切実過ぎる願いだった。それでなくても、中学、高校と一禾の側で一禾と女の子の橋渡しばかりやって来たキヨである。全くあの迷惑三昧の幼馴染と関わってしまったことが全ての不幸のはじまりだった。
「ち、違うのか・・・!」
「・・・そんなにがっかりしなくても・・・彼女居ないの?笹倉くんは」
「・・・いませんよ、つか作れないんですよ、事情が事情でねぇ!」
「なに・・・笹倉くんもしや病気持ち・・・!?」
「いや、違います」
「何だ・・・御免ね、僕空気読めなくて・・・」
「いや、マジで違うんで、誤解を撒き散らすようなこと言わないでください」
「なんだ・・・違うんだ・・・」
「何を期待してんすか・・・」
もういっそそうだったら、諦めもつくのになぁと思うのに。いや、でもまだ社会人になったらなったで遊び倒す夢を忘れていないので、やっぱりそれはまだ遠慮したい。ひとり客が入ってきて、キヨは襟を直し、いらっしゃいませと低い声で続ける。
「じゃあ良いものって一体何なんですか?」
「まぁまぁ、それは見てのお楽しみ、かな?」
「何ですか、それ。たいしたこと無かったら怒りますよ」
「俺に怒られても・・・でもきっと見る価値はあるよ」
「・・・ふーん・・・」
「京義くん来たかなー、僕ちょっと見てくるね」
「はーい」
店長のそれには間延びした返事を返し、キヨはグラスを拭きに戻った。ひとつずつ磨いて、ひとつずつ乗せていく。店の中は静かで、全くの無音というわけではないのが心地いい。客同士の小さな会話が、途切れ途切れに音を成して、それの意味まで分からない。
(深夜の手当てつくんだろうなぁ・・・)
キヨはこの店が好きだったし、童顔でお人よしの店長のことも好きだった。ゆっくりと流れるこの時間も、この全ての物音たちも、昼間の喧々囂々とした雰囲気から開放された気持ちになって、心地よいと思っている。きっと此処を訪れる人たちも同じように思っているのだろう。だから派手な女の子がお持て成しをしてくれる店ではなくて、煩い居酒屋でもなくてここを選んで来るのだろうと。
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