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濡れ灰色のニンフ Ⅲ
バスと電車を乗り継いで、ひっそりと夜の街にそこはあった。「ミモザ」と控えめに書かれた看板の店、京義は従業員専用の裏の扉から入った。スタッフルームには誰の姿も無く、誰の気配も無かった。時計は9時を少し過ぎている。まだ少し時間がある。京義はそのままの格好で、スタッフルームの端に置いてあるベンチに寝転がった。ジャケットを上にかけて、少し足を曲げる。
「・・・」
大丈夫、今日は眠れる。
誰の気配にも気が付かなかった。京義の眠りは深くて、早い。次に目を開けると、その隙間から薄く光が差し込んで、徐々に輪郭が見えてくる。京義は目を擦った。歪んだ視界の先に店長の顔が見えた。店長は随分と若く見えるが、実はもう三十前らしい。
「・・・すいません」
「あ、いや。まだ良いんだけどね。ちょっと吃驚しちゃった。こんなところで寝ているから」
「・・・準備します」
「うん、お願いするね」
「・・・」
京義は黙って立ち上がって、服に付いたほこりを払って落とした。店長が店のほうに戻っていき、京義はひとつ溜め息を吐いた。ここに連れてこられたのは、もう1年前で、バイトをしたいと夏衣に言ったのが切欠だった。夏衣に言えば大体のことはあの男が何とかしてくれた。夏衣は少し黙った後、京義に何が出来るの、と馬鹿にしたように口の端で笑った。でも結局はここに連れてこられて、そのことに関して言えば、京義は夏衣に感謝していた。京義はジャケットのほこりも払って、それに腕を通した。涼しい店内、白い白熱灯を見上げて、京義は薄く目を閉じた。
「京義くん来てた、何か眠かったみたいで寝てたよ」
「ふーん・・・じゃぁ俺挨拶したほうが良いですかね?」
「いや、あの子すぐ出番だからちょっと待って」
「出番?」
「でも1年も前からいるのに、笹倉くん会ったことなかったんだね」
「俺夕方ですからね、深夜の人なんですか?」
「うーん・・・まぁそうかなぁ、でも夕方のヒトとは会わないなぁ、やっぱり」
「へー・・・」
その時、僅かに客が何人か声を上げ、誰かが拍手をした。普通、「ミモザ」の客はそんなことはしない。お互いに無関心で、知り合いとしか喋らないか、もしくは全く喋らないのが相場である。だからそれを知っているキヨには、それが異様な光景に見えた。店長がそんなキヨの不思議な表情に、後ろで声を殺して笑っている。
「・・・何なんすか・・・」
「ほら、はじまるよ」
「・・・?」
店長が照明を動かして、一箇所に鈍く光が当たる。そこには黒光りするグランドピアノが置いてあり、その椅子に灰色の髪をした少年がひとり座っていた。少年は俯いて、その表情までは見とれないが、その線の細さからきっと自分より年下なのだろうと思う。しかし、ピアノがあるのは知っていたが、誰かがそれを弾くのは見たことがない。少年がぱっと顔を上げて、鍵盤の上に指を乗せた。
「・・・ホラね」
店長はまだ笑っている。何の曲かは知らなかった。いつの間にかBGMは切れていて、店の中はどこか控え目に鳴るピアノの音だけがする。音楽のことなど何も分からない、でもそれは確かに美しかった。そうして鍵盤の上を行ったりきたりする指を持つその少年も、切なくなるほど美しかった。
「良いもの、凄いでしょ?」
「・・・ようせい・・・」
「え?」
「妖精・・・だ」
「ヨウセイ?どうしたの、笹倉くん」
「だ、誰なんですか、あれ!」
「・・・え、えーっと・・・」
「店長!」
「・・・京義くん」
「名前は聞いてないんですよ!一体何モノなんですか!」
「何者って・・・そんなに怪しい素性の子じゃないと思うけど・・・」
「だってアレ、妖精でしょ?」
「・・・はぁ?」
「凄い・・・つか生きてたんだ・・・」
「ちょ、笹倉くん・・・?」
ぼんやりキヨが見つめる先で、京義は熱心に指を動かしていた。いつも音楽室で練習している時とは、集中力が違う。店長は少しぐらい崩して弾いてくれるものだと思っていた。でも京義がいつも弾くのは完璧なクラシック、楽譜通りのクラシックだった。一音の乱れも無く、一音の間違いも無い。だからこそその音は美しくて完璧である以上に、少し切ない色をしている。
「・・・ちょっと・・・どうしちゃったんだよ・・・笹倉くん」
「店長も酷い人ですよね・・・」
「え?なに?」
「こんなの、二年も俺に隠してたなんて・・・」
「まぁ・・・隠してはいないんだけどね」
「俺、保健所に通報したりしませんよ」
「・・・君は何か物凄い勘違いをしている気がする・・・」
「・・・本物・・・結構大きいんですね・・・」
「・・・」
「俺もっと身長って五センチくらいなものかと・・・!」
キヨよりも何よりも、京義の身が心配になり、店長は溜め息を吐いた。ピアノの前では京義が一曲弾き終わり、拍手に無愛想に少し頭を下げているところだった。京義は時々、夕食時にホテルを出て朝方になり帰ってくる。その間、「ミモザ」でピアノを弾いているのだった。
京義に何が出来るの、夏衣がそう言って馬鹿にしたように笑ったから、京義はピアノが弾ける、と口を滑らせてしまった。次の日には此処に連れてこられて、店長に頭を下げさされた。理由はどうでも良かった。ピアノが弾けるなら、何処でも良かった。
「しっかり働くんだよ」
弾くことが、働くことなら、それは一番望んでいた結果だった。
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