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濡れ灰色のニンフ Ⅳ
翌日、染はやはり学校に行くことを渋っていた。一禾が怒鳴り、仕方なく車の助手席に乗るものの、その目には覇気が無い。何がそんなに怖くて、何にそんなに怯えているのか、一禾は知らないわけではないので、時々そんな風にして嫌がる彼のことを、夏衣の言うように思うようにさせてやりたいと思うことがある。でもそれでは、染の為にはならないことだって分かっている。だから一禾は時々胸が詰まる。
「染ちゃん」
「な、な・・・なに・・・」
「もう怒鳴らないよ、俺に怯えてもしょうがないでしょ」
「・・・分かってる」
「・・・ねぇ、どうしよう」
「・・・なに、テスト?法学部頭良いから大変だよな」
「違うんだ、どうしよう」
「・・・一禾?」
「・・・何処に行こう」
「・・・学校だろ」
「・・・だよね」
「お、俺が言っても言わなくても、学校行くんだろ・・・」
「・・・そうだよね」
「なに?もしかして行かないで良いとか?」
「まさか」
自分がしっかりしていないと、この如何しようもない幼馴染のために、出来ることは僅かにそれくらいのことだ。だから一禾は毎日ハンドルを握っている。そのためにハンドルを握っている。シートベルトをつけ、流れる町並みに怯えているこの幼馴染のために。
「・・・何なの・・・そのフェイント・・・」
「御免ね」
「一瞬喜んだじゃん・・・俺の喜び返して・・・!」
「御免、無理だ」
「酷い!」
「だってそれじゃあ、染ちゃんのためにはならないもの」
「・・・わ、分かってる、し!」
「分かってるなら学校行こう、ね?」
「・・・!」
怯えた顔を引き攣らせて、ぶんぶん首を振る。どうしてこの聞き分けの悪い生き物のために、一生懸命生きているのだろうと、一禾は時々不思議だ。引き攣って歪んだその顔だって、綺麗だと思ってしまうのは一体どうしてなのだろう。負けている気がして、本当は憎らしいと思っても良い筈なのに。
大教室には人が溢れている。扉を開けると、無遠慮な視線を多くの生徒が投げかける。染は一禾の後ろにぴたりとついて、なにか後ろめたいことでもあるようにこそこそとしながら教室を横切った。学部が違うのに、流石に一禾は顔が広い。染の知らない人間にまで声をかけられている。
「染ちゃん・・・」
「な、なに・・・」
「後ろについてても意味無いでしょ、それに挨拶ぐらいしたらどうなの?」
「お、俺の知らないひとだし・・・」
「え?」
「き、キヨどこかなー?」
キヨはいつも染と一禾より早く来ている。キヨはいつものところに座っており、肘を突いて神妙な顔をしていた。染が近寄っても何の反応も示さず、ぼんやりとしている。染はそんなキヨのことは時に気に掛けずに隣の席に座ったが、一禾は訝しそうにそんなキヨを見ている。
「キヨ、ねぇ、キヨ」
「・・・あぁ、うん」
「染ちゃん頼むね」
「あぁ、一禾・・・か」
「どうしちゃったの、何か変だよ?」
「うん・・・」
「・・・キヨ?」
「・・・まぁ、良いか」
「良いのかよ」
「兎に角頼んだよ、キヨ」
「おー・・・」
一禾も授業があるので、いつまでも此処には居られない。キヨと染に手を振ると、寄って来た女の子に愛嬌を振りまきながら、扉を押して出て行ってしまった。キヨはぼんやりとそれを見ていたが、一禾が居なくなると風とひとつ溜め息を吐いた。
「・・・なぁ、染」
「どうした?何かあったのか?」
「・・・それがな・・・俺凄いものを見ちゃったんだ・・・」
「え?なに?死体とか?」
「馬鹿、何でそういう発想かなぁ、お前は」
「・・・馬鹿って酷くねぇ?何だよ」
「誰にも言うなよ」
「お、おう・・・」
「一禾にもだぞ」
「うんうん」
「・・・妖精」
「・・・へ?」
染は目が点である。キヨはそんな染は放っておいて、ぼんやりとした目でまた遠くを見ている。キヨが可笑しい、と染は瞬時に理解した。ちょっとどころかかなりおかしい。キヨとは付き合いも二年目だが、染の知っているキヨはそんなファンシーなことを言う人間ではなかったのは確かである。しっかりしていそうに見えて結構適当で、少し心配性で、とても優しい、それがキヨに対する染の見解だ。
「ど、どうした・・・?キヨ・・・」
「昨日見ちゃったんだよねー・・・妖精・・・」
「お、お前ストレスがまさか・・・俺のせい・・・!?」
「お前にも見せてやりたいよ、無理だけどな!」
「・・・キヨ!御免!戻ってきて、俺のキヨ!」
「何だよ、染煩いぞ」
「ご、御免な・・・俺のせいだ・・・」
「はぁ?何の話?」
「頑張る、無理かもしれないけど俺頑張るから、キヨ帰ってきてくれー・・・」
「帰るも何も、俺はここに居るだろ」
「・・・お、お前キヨか?本当にキヨなのか?」
「何言ってんだ、頭でも打ったのか?」
「て・・・天災だ・・・!」
「はぁ?」
キヨから言わせると、染のほうがおかしかった。キヨは染のことはいつもおかしいと思っている。でも見た目よりは、案外普通以下の人間だとも思っている。皆が染のことをもっと知れば、きっと半分以上は染に愛想を尽かすだろう、なんて失礼なことも同時に考えている。
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