54 / 302

濡れ灰色のニンフ Ⅴ

アレは妖精だったに違いない。鈍い光の中で、揺れる白い髪、撫でるように鍵盤の上を指が動いて、それは酷く精巧に出来た人形のようだと思った。あんなものをはじめて見た。拍手にも特に興味を示す様子も無く、無愛想な目は赤く、唇が笑みの形を作ることは最後まで無かった。 「・・・人間じゃん」 「人間じゃない!妖精!もしくはそれに近しい物!」 「じゃぁ人間だよ。だってピアノ弾いてたんでしょ、人間だって。妖精はもっと小さいはずだし」 「お前妖精見たことあんのか?」 「いや・・・無いけど・・・でも多分小さいと思うけど」 「それは固定概念だ!人間が作り出した愚からしい物!」 「・・・キヨがやっぱり変だ・・・」 「店長俺に隠してたんだぜ・・・酷いよな・・・」 「・・・この分じゃ店長さんが可哀想な目に遭ってんだろうなぁ・・・」 染は溜め息を吐き、まだ目を輝かせているキヨのほうを見やった。何だかその色合いは、知っているような気もするけれどはっきりと形にはなってくれない。早く一禾が来れば良いのに、別れた側からもうそう思っている、重症だ。潰したストローを見るたびに、染ちゃんそれいい加減止めなよ、と一禾は笑う。子どもみたいだよと、笑う。 夜は世界の半分を占めている。京義は欠伸をして、貰ったチョコ入りのマフィンに齧りついた。余り上品とは言えないやり方で、それを食す。箱の上には英語で何とか、と書いてあって、京義はここのマフィンが嫌いではない。疲れたときには甘いものが良いというのは誰の教えだったのか、覚えていない。京義の座っている隣の椅子には、ピンク色の花束が置かれていて、そちらにはほとんど興味はない。 「京義くん」 「・・・はい」 「あ、御免、食べてる最中だった?」 「いえ、大丈夫です」 「紅茶でも持ってくるね」 「・・・すいません」 「三十分後、お願いね」 「はい」 「あぁ、後これ。京義くんにだって」 「・・・ーーー」 店長に渡された白い花束、京義は花の名前など知らない。口だけはお礼を言って、店長はそれに少し笑った。時々お菓子だったり、花だったり、京義は貰うことがあった。店長はそういうものを一々京義に持ってくるが、花は店に飾ったり、欲しいという人にあげたり、お菓子は食べることもあるが、まさか全部は食べきれないので店に置いておく。日持ちしないものはその日の従業員が食べてしまう。京義はホテルには何も持って帰らない。そんなものを貰う為に、弾いているわけではないのだ。 「・・・」 「・・・あ、・・・あの!」 行ってしまった店長の代わりにやって来たのは、京義の知らない顔だった。京義の前に紅茶を置いて、その指先が僅かに震えている。制服を着ていたので、従業員には違いない。というか、スタッフルームに入れるのは従業員だけだ。京義は少し頭を下げた。 「すいません」 (しゃ、しゃべ・・・!?) 「・・・?」 キヨはあたふたしたまま、何も言わない。京義はそれに特別興味は示さずに、マフィンのカップを破いた。妖精は喋るし、ものだって食べる。でも食べているものがマフィンだなんて、何だか期待を裏切らない感じで可愛いなぁとキヨはぼんやり思っていた。側に置かれた白とピンクの花束、白い照明の下で見るとやはり、京義は美しかった。人工的な光に当たってきらきらと輝く髪、白い頬に薄ピンクの唇を開いて、マフィンを齧る。 「・・・」 「・・・食べますか?」 「え、あ・・・!?」 「どうぞ」 「・・・」 キヨがじっと見ていたその先はマフィンではなく、マフィンを齧る唇だったのだが、京義はきっとこれが欲しいのだろうと勘違いし、箱をそっと押しやった。隣の席を占領していた花束を掴んでテーブルの上に乗せる。キヨは開けられた椅子を引いて、そこに座った。京義は残りのマフィンを食べている。勿論、キヨは今日だって深夜のシフトではなかったのだが、無理を言って代わってもらっていた。店長に笑われたが、そんなことを気にしていては仕方がない。京義はそれ以上何も言わなかった。その雰囲気はミモザの雰囲気によく似ている。 「・・・えっと」 「・・・」 「あの、有難う」 「・・・いえ」 「・・・け、京義くん・・・?」 「はい」 「俺、笹倉って言うんだけど・・・」 「はい」 「・・・えっと」 それは妖精に違いない。羽も見えないし、美しく微笑することも無いけれど。美しいものなんて、染や一禾で見慣れているはずなのに、こんなに惹かれるのは一体この少年の何だろうと、キヨは不思議だった。彼のことが知りたいと思った。あんなに美しく、それでも寂しい音楽を知っている彼のことを、知りたいと思った。 「ピアノ、上手だね・・・」 「・・・ーーー」 (いや、ちょっと待て、俺!ピアノ上手だねってもっとほかに言い方が・・・!!) 「・・・有難う御座います」 (・・・あれ) にこりともしなかったが、京義はそう言った。不可解に思った様子でもなければ、好感触でもなかったが、その京義の反応にキヨはほっとしていた。キヨは黙って、マフィンを齧った。味など分からない。彼の隣に座って、彼と同じものを食べている。それに眩暈を起こしそうで、目の奥はずきずきとしている。すると、いきなり京義が立ち上がった。マフィンのカップを側のゴミ箱に捨てると、くるりとキヨのほうを向いた。 「・・・え・・・?」 「俺、もうすぐ出番なんで準備してきます」 「・・・え、あ・・・そう・・・なんだ」 「はい、後」 京義はピンクと白の花束を両手で持ち上げると、ぽかんとしているキヨの腕の中に差し込むように手渡した。 「あげます」

ともだちにシェアしよう!