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濡れ灰色のニンフ Ⅵ

鈍い光の中で、彼はピアノを弾いている。 「・・・」 「・・・笹倉くん」 「・・・へぇ?」 「・・・すっかり骨抜きだな・・・どうしちゃったんだよ・・・」 「・・・さー・・・?」 「そんなに良かった?」 「・・・へ」 「京義くん」 「・・・貰ったんです、これ・・・」 「・・・花?っていうかそれ・・・」 「俺、大事にしますね」 「・・・あぁ、・・・まぁ君がどうしようと・・・勝手だけど・・・」 蝶のような羽は無いけれど、彼はきっと妖精だ。美しさなんて言葉では図れないし、口には出せないそれ以上のもの。甘い匂いを放つ、この花だって彼には、似合わなくて敵わない。ぼんやりピアノを弾く京義を見ているキヨの後ろで、店長は今日何度目かの溜め息を吐いた。 「・・・でも僕は止めておいたほうがいいと思うなぁ・・・」 「え?」 「いや、黙ってたけどさ。彼を連れてきたのは白鳥の人なんだよね」 「・・・シラトリ?」 「笹倉くんは知らないのかぁ。そうか、若い子は知らないのかもね」 「何すか、どっかの社長とか?」 「違うよ。まぁ兎に角、あんまり関わり合いたくない相手であることは違いないんだ」 「・・・意味ありげですね」 「うん、僕の家も白鳥の系列でね」 「・・・京義くんも?」 「さぁ、でも息がかかっていることは確かなことだよ」 「・・・それって?」 「まぁ、そういうことさ」 「・・・ーーー」 そういうこと、そう言って店長は言葉を濁した。白鳥とは一体何だろう。それを知れば、少しは分かるのだろうか。彼が寂しく悲しく弾くその正体を、知ることが出来るのだろうか。誰かの為の音楽ではない。正確に精密に、楽譜どおりの音を再現している。そうだ、あれは再現だった。 「・・・もっと楽しそうに弾いてもいいと思うんだ」 「・・・」 「でも、京義くんは音を飛ばさないし、音を加えない」 「・・・」 「美しいけど、何だか悲しいよね」 「・・・俺も、そう思います」 何を知っているのだろう、10代のその横顔はいつだって悲しい色をしている。でもそれは分からないし、無愛想に頭を下げる彼の口からは、永遠に語られることなんて無いようだった。それがどうして、どういう意味なのか、店長がその時言った言葉も、理解は出来ていなかった。 「・・・店長」 「なに?」 「京義くんは次いつ来るんですか」 「・・・三日後だけど・・・また合わせる気?」 「諦める気は無いんです、その良く分かんない白鳥とかのせいで!」 「・・・止めといたほうがいいと思うなぁ・・・」 苦笑いをしながら、それでも思っていた。もしかしたら、案外京義の指を軽くしてくれるのは、何も知らないようなキヨみたいな人間じゃないのだろうかって。白とピンクの花束を抱えて、嬉しそうにしている、ただそれだけのそれ以上は何もない、キヨみたいな人間じゃないのだろうかって。 三日後、もう上がって良いよ、と店長が言ったのが3時頃だった。その頃はまだ目が冴えている。京義はお疲れ様でしたとか何とか、挨拶を交わして、貰ったクッキーを一枚だけ食べると、帰り支度を始めた。仕度といっても京義はいつも軽装だ。ジャケットを脱いで、財布を捜してポケットに入れる。クッキーはここに置いておけば、また誰かが食べて無くなる。 「あ、ちょっと・・・」 「・・・?」 「待って!」 「・・・ーーー」 スタッフルームの扉を開けると、後ろからそう声がして、振り返るとキヨが立っていた。京義は一旦扉を閉めて、食べかけだったクッキーの残りを口に入れて、相手の言葉を待った。最近キヨとはバイトが重なる、そのことに別の意思が介入されていることまで京義は気付かなかったが、特に喋るという間柄でもない。京義はバイト中ほとんどピアノに向かっているし、キヨはキヨで仕事が無いわけではない。 「・・・何ですか」 「あの、この間、花、有難う」 「・・・花?」 「それで、あの」 この間とはいつのことだろう。京義は考えを巡らせたが、覚えていない。しかし、キヨはそんなことは全く気付いている様子も無く、後ろから赤い薔薇の花束を出して京義に差し出した。京義は反射的にそれを受け取り、訝しそうにキヨを見上げた。京義からしてみれば、こんなものを渡される意味など分からない。 「・・・?」 「京義くん何か好きなものある?」 「・・・は?」 「今度何か食べに行こう、俺奢るからさ」 「・・・あの・・・」 「それじゃ、お疲れさま。気をつけて」 「・・・ーーー」 一気に吐き出したそれだけの台詞、キヨはくるりと不自然に体を返すと店のほうに戻っていった。京義はぼんやりとそれを見届けることしか出来なかった。渡された花、その薔薇だって不自然な赤い色をしている。棘のとられた青緑色の茎と葉、花びらを少し触るとぽろりと花びらが落ちて、京義は慌てた。思わずそれを拾い上げてポケットの中に入れる。朝はそこまで来ていて、妙な暑さだけが残っていた。

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