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濡れ灰色のニンフ Ⅶ

京義はその日、ホテルに帰って着替えも早々に泥のように眠った。途中誰かの声がしたが、取り敢えず眠くて仕方が無かった。妙に暑いなと思って、目覚めるともう12時を回っていた。目を擦って談話室に下りる、何だか忘れているような気がした。 「・・・」 「あ、京義おはよう。遅かったね」 「・・・悪い、何か、食うもの・・・」 「用意するよ、これから皆のお昼作るところだから」 「・・・あぁ」 談話室には一禾がエプロンを付けて立っており、京義は寝ぼけた頭でそれに答えた。残るふたりは今頃、掃除だ洗濯だと走り回っているところだろう。まだ夏衣からの連絡は無く、オーナーの姿はない、と言っても夏衣がこれまで連絡してきたこと自体が無いのだが。京義はまだ眠い目を擦って、ソファに埋もれてテレビのスイッチをつけた。ガチャガチャと煩いテレビは、時々覚醒を手伝ってくれた。 「ナツ帰って来ないね」 「・・・あぁ」 「何やってるんだろ、まぁいつものことだけどさ」 「・・・」 京義はそれに返事をしながら、一禾が夏衣のことを心配しているなんて、何か変だなと思った。そんなことを言いながら、あんなことを言いながら、やっぱり夏衣が言うように、一禾だって案外どう思っているのかは分からない。キッチンに立つ一禾のおおよそ似合わないエプロン姿も見慣れてきた。 「はー、疲れたー!」 「あっつー!」 突然談話室の扉が開き、仕事を終えた紅夜と染が入ってきた。京義はひとつ欠伸をして、一層ソファに座り込む。暑い、暑いと愚痴を漏らしていた二人だったが、紅夜が不意に京義に気付いて、こちらにやって来た。京義はテレビを見ながら半分まだ眠っていた。 「何や、京義起きたんや」 「・・・あぁ」 「俺起こしに行ってんで、覚えてない?」 「・・・全く」 「やろうなぁ・・・反応ゼロやったもん」 「それって起こしたって言えるのかよ」 そう言えば、誰かが呼んでいたような気がするけれど、気のせいだったような気もする。真実は誰にも分からないところに逃げ込んで、こちらから呼んでも出てきてはくれない。いつものことだ。染が笑って、京義は何か忘れていると思ったが、それが一体何だったのか分からない。 「そういや、京義さ」 「・・・」 「あの薔薇、誰かに貰ったん?」 「・・・あ」 「え、薔薇?」 「なになに!薔薇?」 思い出した。そう言えば、薔薇は一体何処にやってしまったのだろう。どうして紅夜がその有無を知っているのか、京義は思ったがこの状態でそれを口にするのは自殺行為だ。別に要らない花束を自己満足と共に渡されて、突っ返す暇も無く京義はそれを持ち帰っていた。ホテルには何も持ち帰らない主義だったのに。京義は舌打ちしたい気持ちだったが、昨日の晩に処理しておかなかったのは、こちらの非だった。 「京義起こしに行ったときに、薔薇の花束がベッドの脇に落ちててん」 「・・・おおー・・・」 「アレ、誰かから貰ったんやろ?」 「京義が買うとは思えねーしな!」 「へー・・・今時薔薇とはね、プレゼントにしてはセンスが無い」 「え!いいやん!情熱的で!」 「紅夜、お前それ絶対色だけだろ」 「いやー、でも他にあるでしょ。時計とか財布とかさー・・・」 「・・・お前それ貢ぎモノじゃねぇの・・・」 「これやから一禾さんは・・・」 「違うよ、俺は欲しいって言うだけで、向こうが勝手にくれるんだもん。そんなあげるって言ってくれているのに、断わるのは可哀想でしょ!」 ああでもない、こうでもないと話題が自分のことから反れて、京義はほっとした。そうして煩くなってしまった談話室からひっそりと脱出した。白い階段を上って、すぐそこに京義の部屋がある。そこから降りてきた時の記憶は無い。朦朧として、階段を踏み外さなかったのが奇跡に近い。京義はその扉を開けて、もう一度部屋の中に戻ってきた。暑いのは冷房をつけていないせいで、部屋の中はむっとしていた。 「・・・ーーー」 紅夜の言うように、ベッドの側にそれは異色を放って落ちていた。拾い上げてみると昨日と同じように、それはみずみずしく美しかったが、京義は花のことを綺麗だとは思えない。そういう美的感覚は、自分の体から抜け落ちていると思う。京義はそれを放り投げて、ベッドに倒れこんだ。もう流石に眠れないと思う。視界に写るその色は、いつもは無く美しいも綺麗も通り越して何だかおかしい。 (・・・何て、言ってたっけ) 「あの、この間、花、有難う」 (この間って・・・いつだよ) 「京義くん何か好きなものある?」 「今度何か食べに行こう、俺奢るからさ」 分からなかった。そういう風に思われたことが無かったから、一体それは何だと思って、でも彼のようには出来ないとも同時に思っていた。彼が思うように、自分は出来ない。出来るわけがない。 (・・・パフェ・・・食いたい) 一禾はそんなもの決して作ってはくれないだろうし。ベッドの上で妙な異物感を放っているそれを拾い上げて、どうすればこの美しさを保っていられるのだろうと考えた。花瓶を持ってきて水を入れてそこに差し込んでおけば、少しは持つのだろうか。 「・・・」 京義は花瓶を探しに、もう一度部屋から出て行った。処分しようとしていたことなんて忘れていた。

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