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セカンドハウス
そこは深く、静かでゆっくりとした時間が流れていた。さらさらと人工的に流された水の音がしている。夏衣はそれを部屋の中で聞いていた。静寂で緩慢としていて、でもここはおぞましい場所である。夏衣はそれを知っているから、ここで休まろうとは思わない。
「・・・」
「夏衣さま、失礼します」
「・・・誰」
「徳川で御座います」
「・・・」
襖が開かれ、男がひとり頭を下げたままの格好でそこに座っている。夏衣は首をそちらに回して、正座していた足を崩した。足の甲には畳の跡がくっきりとついている。夏衣はそれを撫でて、黙っていた。夏衣の部屋には夏衣のものらしいものはほとんど無く、隅にホテルから持ってきたスーツケースがあるぐらいなものだった。
「どうしたの」
「お時間で御座います」
「・・・あぁ、うん、分かった」
「お着替えください」
「はいはい、送ってくれるの?」
「駅までお送りいたします」
「そう、有難う」
「・・・」
夏衣は薄紫色の着物の襟を少し引っ張った。襖が閉じられる。立ち上がって、箪笥を開けるとそこにスーツが掛かっていた。夏衣は手早くそれに着替えて、着物を畳んだ。隅に置いてあった今回も特に開かれることが無かったスーツケースを引っ張って夏衣は襖を開けた。
「・・・行こうか、徳川」
「お荷物お持ちいたします」
「有難う」
屋敷の中は妙な静けさで埋まっていた。女中が夏衣の顔を見て、頭を下げる。夏衣はそれに特に呼応することもなく、広い廊下を外へと向かう。その美しい桃色の瞳は、湖底のように静まり返っていた。夏衣はここを訪れた時と同じ、黒いスーツでその後ろを歩く徳川も同じようなものを着ている。夏衣のそれには意味があった。誰にも言わなかったが、誰にも教えなかったが、それには意味があった。
「おや、夏衣さまお帰りですか?」
「・・・斉藤」
「もう少しゆっくりしていらっしゃったら宜しいのに」
「有難う、でもホテルを放っておくことは出来ないから、また近々来るよ」
「・・・そうですか。それは残念です」
「夏衣さま」
「行こう、徳川」
これ以上の厄介は面倒になりかねなかった。徳川をそう促して、夏衣は歩き出した。進路を夏衣に譲って、斉藤は襖側に立ち、頭を下げる。徳川はそれに仕方なく従って、夏衣のスーツケースを引っ張りながら後を追う。徳川が頭を下げている斉藤の隣を通り過ぎた時だった。
「淫売」
彼がそう呟くのを徳川は聞いてしまった。いや、多分聞こえるように言ったのだろう。驚いて振り返ったその視界の中で、斉藤は少し口元を歪めていたのだから。それを見た瞬間かっと頭に血が上ったかと思うと、徳川は自分でも制御の利かぬままに、夏衣のスーツケースを放り出し、斉藤の襟首を掴んでいた。がたがたと斉藤の背中に当たる襖が、歪んだ頼りない音を立てた。
「貴様・・・!」
「何ですか、徳川。手を離しなさい、無礼ですよ」
「今、今!何と言った!」
「はぁ?何のことです?」
「とぼけんな!」
「・・・徳川」
静かに凛とした夏衣の決して大きくはないが、どこか縛りのある声が響いて、はっとして徳川は斉藤の襟首を掴んだまま、夏衣のほうにゆっくりと視線をやった。夏衣は無表情を崩すことなく、徳川に分かるように首を振った。その意味が分からない徳川ではない、斉藤の襟首をゆっくり離して、板の廊下に転がる夏衣のスーツケースの取手を掴んだ。斉藤がほくそ笑んでいるのが、この距離で分かる。しかしどうしようもなかった。夏衣が止めろというなら、徳川には最早どうしようもなかった。
「斉藤くん、御免ね」
「いえ、しかし彼は何を勘違いしたのでしょう」
「行こう、徳川。間に合わないよ」
「・・・はい」
「いってらっしゃいませ、夏衣さま」
斉藤が頭を下げる。夏衣はそれには何も言わずに歩き出した。広い玄関に、夏衣の靴が準備されている。女中に見送られて、徳川の回してきた車に夏衣は乗り込んだ。ガラスというガラスが黒く塗られている。白いシートに体を埋めて、夏衣はひとつ溜め息を吐いた。
「・・・夏衣さま」
「・・・どうしたの」
「俺は、俺は悔しいです」
「・・・仕方が無いよ、だって彼の言っていることは本当のことだ」
「そんな・・・そんなことありません・・・!貴方は白鳥の、次期当主になるお方です」
「・・・徳川、泣くなよ」
「・・・そんな・・・」
「泣かれたって困るんだ・・・ホラ、事故起こさないでね」
「・・・どうして・・・」
「・・・」
「どうして、貴方が・・・」
夏衣は笑っている。仕方ないよと言って、本当にそう感じている。どうしてかなんて、今更不思議に思うことはない。徳川の肩に手をやって、どうしてこんなに優しいのだろうと、夏衣はそれのほうが知りたかった。髪をぐしゃぐしゃと撫でて、夏衣はもう一度微笑んだ。
「俺は君が悲しんでくれて嬉しいんだ」
「・・・夏衣さま・・・」
「でも泣くのは駄目だ、俺みたいないやらしい生き物の為に涙は勿体無いよ」
「・・・そんな、そんなことありません、貴方は・・・」
「いいんだよ、徳川」
「・・・」
「悲しんでくれるだけで充分なんだ」
何と言って良いのか分からなかった。だからそれに頷いて、流れる涙を左手で拭った。夏衣の姿が見えなくなるのは悲しいことだが、夏衣が帰ってこないことは安心を齎してくれる。何をどうやって願えば良いのか分からなくて、まだここに立ち尽くしている。そんな自分を見て、夏衣は笑うのだろうと分かっているけれど。
ただ貴方の幸せを願っていた。
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